フレデリック・ジョンストン (第8代準男爵)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フレデリック・ジョンストン (第8代準男爵)の意味・解説 

フレデリック・ジョンストン (第8代準男爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/11 10:11 UTC 版)

第8代準男爵
サー・フレデリック・ジョンストン
Sir Frederick Johnstone
8th Baronet
『 Freddy 』
バニティ・フェア誌に描かれたジョンストンのカリカチュア。(作:Spy
個人情報
生誕 (1841-08-05) 1841年8月5日
死没 1913年6月20日(1913-06-20)(71歳没)
第7代準男爵サー・フレデリック・ジョンストン英語版
ルイーザ・クレイヴン

第8代準男爵サーフレデリック・ジョン・ウィリアム・ジョンストン: Sir Frederick John William Johnstone, 8th Baronet1841年 - 1913年6月20日[1])は、イギリス政治家馬主。エドワード王太子(のちエドワード7世)の競馬仲間で、持ち馬がダービーステークスで二度優勝した。のちに、イギリスを騒がせたモーダント離婚訴訟事件に王太子とともに巻き込まれることとなる。

生涯

1841年、サー・フレデリック・ジョンストン英語版と妻ルイーザ・クレイヴン(Louisa Craven、初代クレイヴン伯爵ウィリアム・クレイヴン英語版の娘)の息子に生まれた[2]。父フレデリックがその年に死去したため、ジョンストンは誕生とともに準男爵位を継承した[2]

1858年にオックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジ)に入学した[3]。在学中にエドワード王太子(のちエドワード7世)、ヘンリー・チャップリンらと知り合いになる[4]。『英国人名辞典』によれば、ジョンストンとヘンリー・スタート英語版(ジョンストン、王太子、チャップリンの同窓生)こそがエドワード王太子の競馬趣味のきっかけになった人物だという[5]

大学時代は競馬仲間のなかでもチャップリンと親しく、アジアに猛獣狩りに出かけたり、卒業旅行にカナダとインドを旅行したこともあった[6]。卒業後も競馬趣味は相変わらずで、1864年のダービーステークスでは王太子やチャップリンとともにロイヤルボックスで観戦し、ブレアーアソール優勝を見届けた[6]。その年、友人のチャップリンが婚約者を同窓生に寝取られた際は[注釈 1]、落ち込むチャップリンを誘ってインド旅行に出かけている。この旅行中、ジョンストンは「競馬を頑張ればいい」とチャップリンをけしかけたという[8]。(その後チャップリンは持ち馬ハーミットでダービー優勝した[9]

1869年、ジョンストンはスキャンダルに巻き込まれた。その年、エドワード王太子の友人である地主・庶民院議員第10代準男爵サー・チャールズ・モーダント英語版の妻ハリエット英語版が子供を身ごもったが、この子供はモーダントの子ではなかった[10][11]。錯乱したハリエット夫人は王太子やジョンストン、コール子爵ローリー・コール英語版とベッドを共にしたと告白し[10]、証拠の手紙まであると申し立てた[11]。これを聞いたモーダントは、妻の不貞を理由に離婚訴訟を起こした。裁判が進むと、手紙は不貞を裏付ける内容ではなく、ごくありきたりなものと判ったが、それでもエドワード王太子は証人として出廷する羽目になった。エドワード王太子は7分にわたって証言台に立ち、夫人との姦通を否定した[11][12]。次期国王が離婚訴訟に巻き込まれるその姿は、世間から「大きな恥辱」と白い目で視られた[11][12]。この裁判では、ハリエット夫人の心神喪失が認められて結審した[注釈 2]

モーダント離婚訴訟事件が終息に向かいつつある1874年、ジョンストンはウェイマス=メルコム・レジス選挙区英語版から庶民院議員に初当選し、1885年まで議席を占めた[1][3]。議員在職中の1876年、ジョンストンは遠縁の本家筋がかつて持っていた爵位(アナンデイル侯爵位)について、自身がその相続人であると貴族院に訴え出た。他にも親族が二人ほど名乗りを上げたが、貴族院はジョンストンらの訴えを証拠不十分として退けた[13][14]

ジョンストンの持ち馬セント・ブレース英語版(左)とコモン(右)。いずれもダービー優勝を果たした。

ジョンストンは馬主としても知られ、1880年から90年代にかけてジョンストンの幸運が続いた。まず1883年に持ち馬セント・ブレース英語版ダービー優勝を果たした[9]。このレースでは、有力馬ガリアード英語版(騎手フレッド・アーチャー)、ハイランド・チーフ(騎手はフレッドの兄チャールズ・アーチャー)も出走していたが、セント・ブレースはクビ差でこれら対抗馬に勝利している(一等賞金は4,775ポンド)[注釈 3][16]。また1891年にも、持ち馬コモン(ヘンリー・スタートと共同所有)でダービーを制覇し、二度目の優勝となった[9]。対抗馬グーベルヌール、マートンハーストを制して勝利したかたちで、一等賞金は5,510ポンドであった[17]

1913年に71歳で死去した[1]

脚注

注釈

  1. ^ チャップリンはフィアンセのアングルシー侯爵家令嬢(フローレンス・パジェット)を大学同期の第4代ヘイスティングズ侯爵に寝取られた[6]。しかしチャップリンはのちに持ち馬ハーミットに大金をかけてダービー優勝し、ヘイスティングズ侯爵の方は賭けに大負けしたことで、雪辱を果たすこととなる[7]
  2. ^ 心神喪失の認定により離婚が成立しなかったモーダントは後日、コール子爵のみを相手取って再び訴訟を起こした[10]。この裁判で、コール子爵は不貞の事実を争わない意向を示したため、モーダントが勝訴した。1875年、モーダントは夫人と離婚した[10]
  3. ^ 名騎手フレッド・アーチャーはこのダービーで敗れたことで「兄チャールズを勝たせようとした、いつもの圧倒的な追い込みを見せなかった」と中傷された。これをきっかけにスポンサーの第6代ファルマス子爵エヴリン・ボスコーエンが競馬から引退したため、アーチャーの騎手人生の凋落が始まる[15]

出典

  1. ^ a b c Sir Frederick Johnstone (Hansard)”. api.parliament.uk. 2025年6月7日閲覧。
  2. ^ a b  382” (英語), Page:Debrett's Peerage, Baronetage, Knightage and Companionage.djvu, ウィキソースより閲覧。 
  3. ^ a b Foster, Joseph, ed. (1891). Alumni Oxonienses 1715-1886 (E to K) (英語). Vol. 2. Oxford: University of Oxford. p. 759.
  4. ^ バーネット & ネリガン (1998), pp. 37, 114.
  5. ^ Moorhouse, revised by Wray Vamplew, Edward (23 September 2004) [2004]. "Sturt, Henry Gerard, first Baron Alington". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/36367 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  6. ^ a b c バーネット & ネリガン (1998), p. 38.
  7. ^ バーネット & ネリガン (1998), p. 44-45.
  8. ^ バーネット & ネリガン (1998), p. 39.
  9. ^ a b c Previous Winners” (英語). www.thejockeyclub.co.uk. 2025年6月7日閲覧。
  10. ^ a b c d EXPERT COMMENT: A Very British Scandal: divorce courts have been shaming women since the 1800s” (英語). www.northumbria.ac.uk (2025年6月5日). 2025年6月7日閲覧。
  11. ^ a b c d ベイカー, ケネス 著、樋口幸子 訳『英国王室スキャンダル史』河出書房新社、1997年、196頁。 ISBN 978-4309223193 
  12. ^ a b Matthew, H. C. G. (23 September 2004) [2004]. "Edward Ⅶ". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/32975 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  13. ^ Cokayne, George Edward; Gibbs, Vicary, eds. (1910). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Ab-Adam to Basing) (英語). Vol. 1 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. pp. 167–168.
  14. ^ Boase ‎, George Clement (1892). "Johnstone, Edward" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 30. London: Smith, Elder & Co. p. 74.
  15. ^ バーネット & ネリガン (1998), p. 64-65.
  16. ^ バーネット & ネリガン (1998), p. 64、(付録I)p=5-6.
  17. ^ バーネット & ネリガン (1998), (付録I)p=5-6.

参考文献

グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会
先代
チャールズ・ハンブロ英語版
ヘンリー・エドワーズ英語版
庶民院議員
ウェイマス=メルコム・レジス選挙区英語版

1874年 - 1885年
同職:ヘンリー・エドワーズ英語版
選挙区廃止
スコットランドの準男爵
先代
サー・
フレデリック・ジョンストン英語版
(ウェスター・ホールの)
準男爵

1841年–1913年
次代
サー・
ジョージ・ジョンストン



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  フレデリック・ジョンストン (第8代準男爵)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フレデリック・ジョンストン (第8代準男爵)」の関連用語

フレデリック・ジョンストン (第8代準男爵)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フレデリック・ジョンストン (第8代準男爵)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフレデリック・ジョンストン (第8代準男爵) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS