ヒールターンと反選手会同盟参加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 09:39 UTC 版)
「後藤達俊」の記事における「ヒールターンと反選手会同盟参加」の解説
1987年には、越中詩郎が負傷により返上したIWGPジュニアヘビー級王座決定トーナメントにエントリーされ、1回戦で保永昇男を破るが、2回戦で小林邦昭に敗れた。その後も、後藤はジュニアともヘビーともつかぬ扱いを受け、中堅のポジションに甘んじていた。しかし1989年10月に髪を金色に染めヒール・ターンを果たす。同じ中堅のポジションにいたヒロ斎藤、保永昇男とブロンド・アウトローズを結成し、後藤も本隊と対立。徐々に中堅戦線を湧かせるようになり、『ワールドプロレスリング』でも放映されるようになっていった。ブロンド・アウトローズには、後にスーパー・ストロング・マシンが加入する。 1990年6月12日の福岡大会では、バックドロップであの馳浩を一時的に心臓停止に追い込んだ。以後、バックドロップは後藤の代名詞となった。 後藤のブロンド・アウトローズは後にレイジング・スタッフと名前を変えるが、徐々に勢いが衰え1993年10月、マシンとの対立により後藤が離脱し、レイジング・スタッフも解散となった。後藤はそのまま反選手会同盟に参加。この時、それまでの金髪から眉毛までをも剃り落としたスキンヘッド姿となる。
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