パクモドゥパ政権の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 07:28 UTC 版)
「パクモドゥパ政権」の記事における「パクモドゥパ政権の誕生」の解説
チャンチュプ・ギェルツェンはパクモドゥ派本拠地のネドンを首都とした。パクモドゥパ政権が支配したのはチベット中央のウー・ツァンである。チャンチュプ・ギェルツェンはチベットをゾンという行政単位に分割し、知事(ゾンポン)はチャンチュプ・ギェルツェンが選んだ。また、十三万戸を廃止し、代わりにゾンを13のゾンチェンに分けた。また、独自に13大法を発令し、法令上もモンゴルの支配を脱した。処刑なども法に則って行われることになった。処刑の見直しは仏教が浸透した影響もある。また、人口を9つの階級に分類した。また、道路と橋の大々的な建設を行った。 1364年、チャンチュプ・ギェルツェンの後を甥のジャムヤン・シャーキャ・ギェルツェンが継いだ。彼は1368年に元が滅びると、モンゴル支配の名残を一掃した。
※この「パクモドゥパ政権の誕生」の解説は、「パクモドゥパ政権」の解説の一部です。
「パクモドゥパ政権の誕生」を含む「パクモドゥパ政権」の記事については、「パクモドゥパ政権」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からパクモドゥパ政権の誕生を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からパクモドゥパ政権の誕生を検索
- パクモドゥパ政権の誕生のページへのリンク