ドゥレーブィ族とは? わかりやすく解説

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ドゥレーブィ族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/02 23:21 UTC 版)

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ドゥレーブィ族[1](ドゥレビ族)[2][3]教会スラブ語: Дулѣбиウクライナ語: Дулібиベラルーシ語: Дулебыロシア語: Дулебы)は6世紀 - 10世紀初頭の東スラヴ民族の部族連合の1つである。

ドゥレーブィ族はプラハ文化コルチャク文化クルガンと関係している。またジムニヴシク城址(uk)はドゥレーブィ族の鍛冶工業の中心地として注目すべき史跡である。

オレグ・トルバチェフ(ru)の説では、ドゥレーブィ族の名はゲルマン系の言語に由来するものであり、それは隣接していた古代西ゲルマン民族の分布圏(ヴィェルバルク文化)から証明されるという[4]。また、ドゥレーブィ族はヴォルィニャーネ族ブジャーネ族ドレヴリャーネ族ドレゴヴィチ族と、おそらく一部のポリャーネ族の祖先にあたるとみなす説がある[5][注 1]

ドゥレーブィ族は7世紀アヴァール人の侵略にさらされた[6]907年にはキエフ大公オレグの東ローマ遠征(ru)に、ヴァリャーグや他の東スラヴの部族と共に参加した[7]。この遠征はキエフ大公国側に利する和平条約(ルーシ・ビザンツ条約 (907))の締結をもって終結した[8]。その後、10世紀半ばにドゥレーブィ族(史料の上ではこのときは既にヴォルィニャーネ族・ブジャーネ族と呼ばれていた)はキエフ大公国に組み込まれた。

脚注

注釈

  1. ^ 日本語文献では、ドゥレーブィ族をヴォルィニャーネ族とブジャーネ族の祖先と指摘しているものがある[6]

出典

  1. ^ 和田春樹『ロシア史』p17
  2. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p12
  3. ^ 伊東孝之『ポーランド・ウクライナ・バルト史』p40
  4. ^ Трубачев О. Н. Ранние славянские этнонимы – свидетели миграции славян // Вопр. языкознания. 1974. № 6. С. 52-53
  5. ^ Галина Лозко. Українське народознавство. Видання третє, доповнене та перероблене. Київ. Видавництво «АрТек» 2006 °C. 21
  6. ^ a b 國本哲男『ロシア原初年代記』p328
  7. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p30
  8. ^ 國本哲男『ロシア原初年代記』p30-32

参考文献

  • 國本哲男他訳『ロシア原初年代記』名古屋大学出版会、1987年。
  • 和田春樹編『ロシア史』山川出版社、2002年。
  • 伊東孝之他編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』山川出版社、1998年。



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