トーマス・ウィリングとは? わかりやすく解説

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トーマス・ウィリング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 23:20 UTC 版)

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トーマス・ウィリング
Thomas Willing
第一合衆国銀行頭取
任期
1791年10月25日 – 1807年11月10日
大統領 ジョージ・ワシントン
ジョン・アダムズ
トーマス・ジェファーソン
前任者 (新設)
後任者 デビッド・レノックス
北アメリカ銀行英語版頭取
任期
1782年1月7日 – 1791年3月19日
大統領 ジョージ・ワシントン
前任者 (新設)
後任者 ジョン・ニクソン英語版
フィラデルフィア市長
任期
1763年10月4日 – 1764年10月2日
前任者 ヘンリー・ハリソン
後任者 トーマス・ローレンス
個人情報
生誕 (1731-12-19) 1731年12月19日
イギリス領北米植民地 ペンシルベニア植民地フィラデルフィア
死没 1821年1月19日(1821-01-19)(89歳)
アメリカ合衆国 ペンシルベニア州フィラデルフィア
墓地 フィラデルフィア キリスト教会墓地英語版
配偶者
Anne McCall
(m. 1763; her death 1781)
子供 13人(アン英語版メアリー英語版ほか)
親族 チャールズ・ウィリング英語版 (父)
ジェームズ・ウィリング英語版 (弟)
メアリー・ウィリング・バード英語版 (妹)
エリザベス・ウィリング・パウエル英語版 (妹)
エドワード・シッペン英語版 (曾祖父)
教育 インナー・テンプル

トーマス・ウィリング(Thomas Willing、1731年12月19日 - 1821年1月19日)は、アメリカの商人・銀行家・政治家である。フィラデルフィア市長大陸会議ペンシルベニア植民地代表、北アメリカ銀行英語版初代頭取、第一合衆国銀行初代頭取などを務めた[1]

若年期

トーマス・ウィリングは、フィラデルフィア市長を2度務めたチャールズ・ウィリング英語版(1710-1754)と、第2代フィラデルフィア市長エドワード・シッペン英語版の孫であるアン・シッペンの息子としてフィラデルフィアに生まれた。弟のジェームズ・ウィリング英語版はフィラデルフィアの商人で、後に大陸会議の代表を務め、1778年にはミシシッピ州ナチェズの英国忠誠派の領地を襲撃する軍事遠征(ウィリング遠征英語版)を指揮した[2]

トーマス・ウィリングは、イギリスのバースで準備教育を受けた後、ロンドン法曹院インナー・テンプルで法律を学んだ[3]

キャリア

1749年、イギリス留学からフィラデルフィアに戻り、ロバート・モリスと組んで商売を始めた[4][5]。1757年にウィリング・モリス・カンパニーを設立した。同社は、小麦粉、木材、タバコなどをヨーロッパに輸出し、西インド諸島アフリカから砂糖、ラム酒、糖蜜、奴隷などを輸入した[6]。モリスとのパートナーシップは1793年まで続いた[4]

1768年、復活したアメリカ哲学協会の会員に選ばれた[7]

政治家

1755年に市議会(コモン・カウンシル)の議員、1759年に市裁判所の裁判官(alderman)となり、1759年10月2日には市裁判所の準判事、1761年2月28日に民事訴訟裁判所判事となった。1763年にフィラデルフィア市長となった。1767年、ペンシルベニア植民地議会は、トーマス・ペン英語版総督の同意を得て、植民地最高裁判事(常に弁護士)が、地方の治安判事(郡裁判所の裁判官だが一般人)と一緒にナイサイ・プライアス英語版(第一審)の法廷を構成することを認めた。ペン総督は、ジョン・ローレンスとトーマス・ウィリングを新たに最高裁判事に任命した。ウィリングは1767年まで務めたが、これが植民地政府の下での最後となった[8]:52[4]

大陸会議のペンシルベニア植民地代表も務め、1774年に通信連絡委員会英語版委員、1775年には安全委員会英語版委員となった。1775年と1776年には独立宣言に反対票を投じ[9]、独立宣言への署名もしていないが、その後、アメリカ革命のために5千ポンドを寄付した[4]

銀行家

独立戦争後、1782年から1791年まで北アメリカ銀行英語版初代頭取、1791年から1807年まで第一合衆国銀行初代頭取を務めた

1807年8月に軽い脳卒中を患い、1807年11月に健康上の理由で頭取を辞任した[8]:189[10]

私生活

アン・マッコール・ウィリングとウィリアム・シッペン・ウィリング(チャールズ・ウィルソン・ピール画)
ウィリングの肖像画(チャールズ・ウィルソン・ピール画)

1763年、サミュエル・マッコール(1721-1762)とアン・サール(1724-1757)の娘であるアン・マッコール(Anne McCall, 1745-1781)と結婚した。2人の間には、以下を含む13人の子供が生まれた[4]

  • アン・ウィリング英語版 (Anne Willing, 1764–1801) - ウィリアム・ビンガム英語版(1752–1804)と結婚[11]
  • トーマス・メーン・ウィリング (Thomas Mayne Willing, 1767–1822) - ジェーン・ニクソン(1775–1823)と結婚[4]
  • エリザベス・ウィリング (Elizabeth Willing, 1768–1858) - ウィリアム・ジャクソン(1759–1828)と結婚[4]
  • メアリー・ウィリング英語版 (Mary Willing, 1770–1852) - ヘンリー・クライマー(1767–1830)と結婚[4]
  • ドロシー・ウィリング (Dorothy Willing, 1772–1842) - いとこのトーマス・ウィリング・フランシス英語版と結婚[4]
  • ジョージ・ウィリング (George Willing, 1774–1827) - レベッカ・ハリソン・ブラックウェル(1782–1852)と結婚[4]
  • リチャード・ウィリング (Richard Willing, 1775–1858) - エリザ・ムーア(1786–1823)と結婚[4]
  • アビゲイル・ウィリング (Abigail Willing, 1777–1841) - リチャード・ピーターズ(1780–1848)と結婚[4]

ウィリングは1821年にフィラデルフィアで亡くなった。遺体はフィラデルフィアのキリスト教会墓地英語版に埋葬された[12]

子孫

ウィリングは、ロードアイランド州知事や合衆国上院議員を務めたジョン・ブラウン・フランシス英語版(1791-1864)の大叔父にあたる[13][14]

アンの娘のアン・ルイーザ・ビンガム英語版(1783-1849)は、1798年にアシュバートン男爵アレクサンダー・ベアリングと結婚した[15]。その妹のマリア・マチルダ・ビンガム(1783–1849)は、フランスの貴族のティリー伯爵ジャックス・アレクサンドル(Jacques Alexandre, Comte de Tilly)と一時的に結婚した後、姉の義理の兄弟であるヘンリー・ベアリング英語版(1777-1848)と結婚したが1824年に離婚した。その弟のウィリアム・ビンガム(1800-1852)は、1822年にマリー=シャルロット・シャルティエ・ド・ロットビニエール(1805-1866)と結婚した。彼女はジョン・マンロー英語版の娘メアリーとミッシェル=ユースタッシュ=ガスパール=アラン・シャルティエ・ド・ロットビニエール英語版の間の娘である[4]

脚注

出典

  1. ^ WILLING, Thomas, (1731–1821)”. Biographical Information of the United States Congress. US Congress (2009年6月11日). 2009年6月11日閲覧。
  2. ^ The American Monthly Magazine. National Society. (1902). pp. 109–. https://books.google.com/books?id=xtIQAQAAMAAJ&pg=PA109 
  3. ^ Thomas Willing (1731–1821), University of Pennsylvania University Archives”. www.archives.upenn.edu. University of Pennsylvania. 2017年2月11日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m Balch, Thomas Willing (January 1, 1922). Thomas Willing of Philadelphia (1731–1821). The Pennsylvania Magazine of History and Biography. https://archive.org/details/jstor-20086466 2017年2月11日閲覧。 
  5. ^ Thomas Wllling (1731–1821): Philadelphia Financier and Forgoten Founding Father”. journals.psu.edu. Biographical Directory of Early Pennsylvania Legislatures Project. 2017年2月11日閲覧。
  6. ^ Thomas Willing”. The Metropolitan Museum of Art. 2020年3月19日閲覧。
  7. ^ Bell, Whitfield J., and Charles Greifenstein, Jr. Patriot-Improvers: Biographical Sketches of Members of the American Philosophical Society. 3 vols. Philadelphia: American Philosophical Society, 1997, I: 32, 33, 199, III: 27, 117–23, 118, 179.
  8. ^ a b Konkle, Burton Alva (1937). Thomas Willing and the First American Financial System. Philadelphia, PA: University of Pennsylvania Press 
  9. ^ Thomas Willing | exhibits.hsp.org” (英語). digitalhistory.hsp.org. 2017年2月11日閲覧。
  10. ^ Wright, R. E. (1996). “Thomas Willing (1731–1821): Philadelphia Financier and Forgotten Founding Father”. Pennsylvania History 63 (4): 525–560. JSTOR 27773931. 
  11. ^ ALBERTS, ROBERT C (1969). The Golden Voyage. Boston: Houghton Mifflin. pp. 435. https://archive.org/details/goldenvoyagelife00albe 
  12. ^ Society, Sons of the Revolution Pennsylvania (1898) (英語). Decennial Register of the Pennsylvania Society of Sons of the Revolution: 1888–1898. F. B. Lippincott. p. 44. https://archive.org/details/decennialregist00unkngoog 2017年2月11日閲覧. "Thomas Willing (1731–1821)." 
  13. ^ FRANCIS, John Brown – Biographical Information”. bioguide.congress.gov. Biographical Directory of the United States Congress. 2017年2月10日閲覧。
  14. ^ Guide to the Francis Family Papers 1783–1901 (bulk 1783–1838)”. library.brown.edu. Rhode Island Historical Society (2009年). 2017年2月10日閲覧。
  15. ^ Lady Ashburton”. Maine Memory Network. 2021年10月5日閲覧。

情報源

  • Wright, Robert E. "Thomas Willing (1731–1821): Philadelphia Financier and Forgotten Founding Father". Pennsylvania History, 63 (Autumn 1996): 525–60.

参考文献

外部リンク

先代:
ヘンリー・ハリソン
フィラデルフィア市長
1763–1764
次代:
トーマス・ローレンス



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