トーマス・ウェブスターとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > トーマス・ウェブスターの意味・解説 

トーマス・ウェブスター

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/22 23:45 UTC 版)

トーマス・ウェブスター
Thomas Webster
生誕 1800年3月10日
イギリスロンドン
死没 1886年9月23日
イギリス、クランブルック(Cranbrook)

トーマス・ウェブスター(Thomas Webster RA、1800年3月10日1886年9月23日)は、イギリスの画家である。学校や村の生活を描いた風俗画で人気があった。多くの画家集まったケント州のクランブルックの芸術家村(Cranbrook Colony)で長年、活動した。

略歴

ロンドンに生まれた。父親は国王ジョージ3世の邸の使用人であった。音楽の才能を示し、ウィンザー城セントジョージ礼拝堂や、ロンドンのセント・ジェームズ宮殿チャペル・ロイヤルの聖歌隊員になった。画家になるために、音楽を止め、1821年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの美術学校に入学し、1824年には展覧会に肖像画を出展し、翌年美術学校の展覧会で1等を受賞した[1]

1828年にロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの展覧会に学校の生活を描いた作品を出展し、アカデミーの展覧会や民間展覧会「British Institution」に多くの作品を出展した。1840年にロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれ、1846年に正会員に選ばれた。アカデミーの展覧会には76歳になるまで出展を続け、1876年に引退し退会した。1878年に自画像を描き、1879年に最後の作品を描いた[2]

1835年から1856年の間はロンドンのケンジントンに住んだが、その後の30年間はケント州のクランブルックの芸術家村(Cranbrook Colony)で過ごした。クランブルックではジョージ・オニール(George Bernard O'Neill: 1828–1917)やフレデリク・ダニエル・ハーディ(1827-1911)といった画家が活動していた。1886年にクランブルックで亡くなった[2]

学校の生徒や、村の人々といった題材で風俗画を描き、作品は版画にされて出版され人気があった[3]。1838年から1878年までロンドンで版画を出版した「The Etching Club」の会員でもあった[2]

作品

参考文献

  1. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Webster, Thomas (painter)". Encyclopædia Britannica. Vol. 28 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 464.
  2. ^ a b c "Dodgson, Campbell (1899). "Webster, Thomas (1800-1886)". In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography. Vol. 60. London: Smith, Elder & Co. p. 127.
  3. ^ Thomas Webster biography Archived 2012-03-07 at the Wayback Machine. ("Leighton Fine Art).



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  トーマス・ウェブスターのページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「トーマス・ウェブスター」の関連用語

トーマス・ウェブスターのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



トーマス・ウェブスターのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのトーマス・ウェブスター (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS