ディベイン虐殺事件とは? わかりやすく解説

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ディベイン虐殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/16 06:42 UTC 版)

ディベイン虐殺事件(ディベインぎゃくさつじけん、ビルマ語: ဒီပဲယင်း လူသတ်မှု)。2003年5月30日ミャンマーザガイン地方域ディベイン英語版で、地方遊説中のアウンサンスーチー一行が、連邦団結発展協会(USDA)のメンバーに襲撃され、国民民主連盟(NLD)の関係者が少なくとも70人殺害されたとされる事件。

概要

背景

1995年7月10日、最初の自宅軟禁から解放されたスーチーは、地方で民主化運動に対する関心が低下していることに危機感を抱き、当局の許可なくヤンゴンを抜け出して地方遊説を再開、シャン州ラカイン州チン州カチン州、ザガイン地方域などを訪れ、再び熱烈な歓迎を受けた。しかし、当局はたびたびこれを妨害。1996年3月には、マンダレーで行われる予定だったNLD支持者の裁判に出席するため、スーチーが列車でマンダレーに向かおうとしたところ、発車直前に予約していた列車に「トラブル」が発生し、断念せざるをえなくなった。同年11月9日、スーチーが乗った車がヤンゴン市内でUSDAのメンバーと思われる暴徒に囲まれ、棍棒や石で襲撃されるという事件が起きた。1998年8月には、スーチーがヤンゴン郊外のNLD党員と会うため自宅を出たところ、ヤンゴン郊外の橋の上で当局に妨害され、13日間の膠着状態の末、スーチーは病気と脱水症状で倒れ、自宅へ引き返した。1999年9月初旬には、スーチーがヤンゴン近郊の最貧困地区ダラを訪れたところ、そこで200人の治安部隊が彼女の車列を取り囲み、9日間の膠着状態の末、スーチーはヤンゴンへの帰還を余儀なくされた[1]2000年9月21日、ヤンゴン駅で列車でマンダレーに向かおうとしているところでスーチーは拘束されて再び自宅軟禁下に置かれ、ティンウー副議長は軍施設に連行された。しかしこの後、国連ミャンマー特使・ラザリ・イスマイル英語版の仲介で、スーチーと国家平和発展評議会(SPDC)との間で対話が続けられ、ティンウーを含む逮捕されたNLD党員の釈放や閉鎖されていた事務所の再開が進むなど融和ムードが漂い、2002年5月6日、スーチーは解放され、党再建のため地方支部訪問や地方遊説を再開した[2]

事件

スーチーは、2002年6月11日2003年4月13日までの間に95郡区を訪問し、NLD事務所の再開に尽力。2003年5月6日からマンダレー地方域、ザガイン地方域、カチン州、シャン州を訪問した。これらの旅程はすべてSPDCおよび郡区選挙管理委員会から事前に許可を得たうえで行われたもので、同行したスタッフは、スーチーから「たとえ攻撃を受けても反撃してはならない」と忠告を受けていた[3]

5月29日午前9時、7台の車と20台のバイクからなる総勢約100人のスーチー一行は、マンダレーから最後の旅程であるザガイン地方域モンユワへ向かった。先頭は数百メートル先を行く偵察者、その後にスーチーが乗る緑色のトヨタ車、その後にティンウーらNLD幹部、地元の支持者が乗る車が続いた。午後10時、ザガインを通り過ぎた際、USDAのメンバー約800人が道路の左右で「USDAを支持しない人々は必要ない」などと書かれたプラカードを掲げ、プラカードに書かれた通りのスローガンを連呼していた。しかし、その叫びはその背後に控えていた数千人の支持者の「アウンサンスーチー万歳!」の叫びにかき消された。午後12時、ミンムー英語版に到着。そこでもUSDAのメンバーが待ち構えていたが、数で圧倒する支持者の前で何もできなかった。スーチーはそこで事務所の再開を宣言し、演説を行うと、午後3時、ミンムーを発ち、午後6時、モンユワに到着した。町全体が停電していたが、大勢の支持者がろうそくを灯して一行を歓迎してくれた[3]

翌5月30日、午前8時、スーチーは群衆の前で演説を行い、NLD事務所の再開を宣言した。これが2010年11月13日に三度目の自宅軟禁から解放される前の、最後のスーチーの演説となった。午前10時、モンユワを発ちブダリン英語版へ向かった。途中、ミャンマー軍(以下、国軍)北西司令部が車列を止め、スーチーとNLDの車だけ通して、支持者の車を帰らせた。その後、支持者の車は警察の待ち伏せに遭い、殴打され逮捕された。そんなことなど露知らないスーチーは、ブダリンでまたNLD事務所の再開宣言と演説をした後、午後4時半頃、ディベインへ向かった[3]

途中、サインピン村で当時獄中にあったNLD議員の家族を訪問。その間、偵察車を先に行かせたが、戻ってこなかったので、さらにバイク数台を様子見に行かせたが、彼らもまた戻ってこなかった。その後、午後7時半~8時頃、スーチー一行はディベインから3.2kmほど離れたチー村に入ったが、その時、2人の僧侶が車列を止め、スーチーに演説をしてくれるようにを頼んだ。しかし、実は彼らは偽僧侶で、一行が彼らと押し問答をしている間、一行を尾けていた4台の車、2台の大型トラック、2台のピックアップトラックが乗りこんできて、荷台から鉄棒、竹棒、バットで武装したUSDAメンバーが続々と飛び降り、一行を出迎えていた村人たちに襲いかかった。村人たちは散り散りになって逃げ、USDAのメンバーがスーチー一行に近づいてきた時、今度は道路の両脇で待ち伏せしていた約3,000人のUSDAメンバーが姿を現し、一緒になって一行を襲い始めた。USDAメンバーたちは麻薬かアルコールで酩酊状態にあり、無抵抗のNLDメンバーを容赦なく武器で打ちつけ、女性メンバーのブラウスやロンジーを剥ぎ取った。ティンウーも頭を殴られ血を流しながら、身体を引きずられていたた[3]

USDAメンバーは、スーチーの車が先頭にいるとは予想しておらず、車列の真ん中あたりに攻撃を集中させていたが、やがてスーチーの車に気づき、近づいてきた。車を守っていたNLDメンバーが殴り倒され、車の窓ガラスが割られた。運転手は車を急発進させ、その場を逃走。途中、約1,000人のUSDAメンバーが待ち構えていたが、猛スピードで突っきった。そして、イェーウー英語版という町で国軍兵士に止められ、一行はイェーウーの刑務所に連行された。この事件により、政府発表によれば4人、目撃者の証言によれば70人の死者が出たとされる[3]

事件後

その後、スーチーはインセイン刑務所に収監された後、三度、自宅軟禁下に置かれた[4]。事件の首謀者はタンシュエで、実際にスーチーの殺害を目論んでいたとされる[3]

脚注

注釈


出典

  1. ^ Aungzaw 2014, p. 21.
  2. ^ アジア経済研究所「アジア動向年報2000 - 2009 : ミャンマー編」『アジア動向年報2000-2009』2023年、1–272頁。 
  3. ^ a b c d e f ポパム 2012, pp. 495–516.
  4. ^ 岡本, 郁子「国民和解プロセスの後退民政移管ロードマップは突破口となりうるのか : 2003年のミャンマー」『アジア動向年報 2004年版』2004年、[423]–448。 

参考文献

外部リンク




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