チーム崩壊・倒産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 17:06 UTC 版)
しかし1991年のバブル景気の崩壊と共に資金繰りが悪化し、同年のシーズン終了後に赤城明はF1チームのオーナー権を手放さざるを得なくなった。 また資金不足に陥ったチームはシーズン終盤に、全日本F2選手権時代からの関係であったカペリとの契約を解除し、スポンサーを持ち込んだカール・ヴェンドリンガーを採用せざるを得なくなってしまった。 翌1992年にはチームマネージャーの萩原任(萩原光の弟)らがレイトンハウスの全日本F3000部門を受け継ぐ形で「萩原レーシング」の名称で全日本F3000での活動を継続したものの、同年一杯で全日本F3000での活動を停止。これにより「レイトンハウス」の名前を冠したレーシングチームは事実上消滅し、以後は同チームの元スタッフらがジュニア・フォーミュラを中心とした育成カテゴリーで活動していくことになる。 企業としてのレイトンハウス並びに丸晶興産はその後も事業を継続したが、ヒューゴ・ボスや多くの資産を手放さざるを得なくなったうえ、1998年6月に丸晶興産は債権者からの申し立てにより破産宣告を受けた(負債総額は約1,670億円)。
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