スヴャトスラフのブルガリア遠征
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「ルーシ・ビザンツ戦争」の記事における「スヴャトスラフのブルガリア遠征」の解説
詳細は「スヴャトスラフ1世」を参照 東ローマ帝国の長年の敵国であったブルガリアの衰退を見たニケフォロス2世フォカスは、キエフ大公スヴャトスラフに多額の報償を与え、ブルガリア攻撃を乞うた。スヴャトスラフは東ローマの要請にこたえて967年に、ブルガリアに攻撃を開始し、その年の内にブルガリア軍を壊滅させてしまった。だがスヴャトスラフは占領した土地の引き渡しを拒否し、本拠地を、キエフから占領していたペレヤスラヴェツに移そうとしたため東ローマ側に警戒心と反感を持たれてしまった。969年の夏、スヴャトスラフはブルガリア全土を征服した。そこでスヴャトスラフはニケフォロス2世フォカスを殺害して新たに皇帝となったヨハネス1世ツィミスケスからルーシの地に引き上げるようにと勧告を受けたが、これを黙殺し、逆に東ローマ領トラキアに侵攻した。だがスヴャトスラフは東ローマ軍に敗北し、二度とブルガリアに足を踏み入れないと約束させられてしまった。
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