ジョルジュ・ブリソー=デマイエとは? わかりやすく解説

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ジョルジュ・ブリソー=デマイエ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/12 03:28 UTC 版)

ジョルジュ・ブリソー=デマイエ
Georges Brissaud-Desmaillet
生誕 1869年1月16日
カルカソンヌ
死没 (1948-11-14) 1948年11月14日(79歳没)
パリ16区
所属組織 フランス陸軍
軍歴 1889-1931
最終階級 師団将軍
除隊後 弁護士
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ジョルジュ・アンリ・ブリソー=デマイエ[注釈 1]、(フランス語: Georges Henri Brissaud-Desmaillet1869年1月16日 - 1948年11月14日)は、フランスの軍人。最終階級は中将(師団将軍[注釈 2]。 「 白里索 バイ・リースォ」の中国名で袁世凱の軍事顧問を務めた。

生涯

カルカソンヌ出身。代々軍人で、祖父は憲兵大尉、父は軽騎兵少佐であった。 サン・シール陸軍士官学校トンブクトゥ分校に入学し、1889年の卒業後は猟兵少尉[4]

1894年に陸軍大学に入学し、1896年に優等で卒業(14位)。

1901年3月、駐日特命全権公使ジュール・アルマンの一時帰国につき、駐日臨時公使代理[5][6]。以降、訪日使節の引導等で明治天皇・皇后に複数回拝謁している[7][8]。また、永代借地権にかかわる家屋税問題をめぐる紛争については1902年にフランス代表として国際仲裁裁判への付託合意と、裁判期間中の徴税を中止する議定書の取り交わしを行った[9]

同年10月、清国駐在武官に発令される[10]日露戦争中は日本清国公使館付武官の青木宣純大佐と親交が深く、京漢鉄道正太鉄道の情報提供に協力した[1]。併合前後に大韓帝国の駐在武官を経て、辛亥革命後の1912年に中華民国公使館附武官に再赴任し、総統府軍事顧問として招かれる。同年12月25日に大佐。1913年春、中華民国臨時大総統・袁世凱に対し、航空機と潜水艦がこれからの戦力で重要になると説き、航空学校の開設を建議。のちの南苑航空学校の開校に繋がった[11][12]。。のち、中国軍の現状と問題点を全般的に取りまとめた報告書を1927年に「中国の軍備」と題して出版している。またその翌年、辛亥革命前後に広州で駐在武官経験のあるルネ・ヴァンランデが辛亥革命に批判的な立場で著した「中国革命回想録」に序文を寄稿し、「ボルシェビキのプロパガンダのもとで、中国人は内外に敵を作りすぎた」と同様に批判的な立場を取っている[13]

1914年、第28アルペン猟兵大隊フランス語版長として第一次世界大戦を迎える。10月、アルザス=ロレーヌ地方の境界線ヴォージュ山脈に進軍し、テット・デュ・ヴィオルフランス語版地点の砲台の制圧に成功。一方、第30アルペン猟兵大隊フランス語版と共同で行われた南部のコレット・デュ・ヴィオル攻略はドイツ軍に阻まれ断念した。

同年、第1322フランス語版・28・30の4個大隊を統括する第1アルペン猟兵集団の司令官に就任。1915年1月からは第3猟兵旅団長に転じ、ランジェの戦いフランス語版の指揮を執った。

1916年9月23日、砲撃で戦死したピエール・ジロドンフランス語版少将の後任で第12歩兵師団フランス語版長に発令され、ソンムの戦いを指揮。12月31日、少将。

シャルル・ノレフランス語版第1軍団長英語版とともに第68アルペン猟兵大隊フランス語版を顕彰するブリソー=デマイエ(右端、1919年)

1917年4月19日より第66歩兵師団フランス語版(愛称:青師団)を指揮。アミアンの戦い英語版に参加。

1920年7月15日、ザール占領軍の司令官(~1923年12月22日)。1922年9月19日、中将。

1931年1月16日に予備役編入後、パリで弁護士を開業。また、当時の与党・急進党党員としても活動した。

日本の国連脱退前後、他の日本駐在経験者らとともに満洲国への支持の呼びかけを各地での講演会やフリーメイソンへの働きかけを通して行った[14]

著書

  • 《Projet d'organisation de l'armée chinoise》(1914年)
  • 《L'Armée chinoise : le problème des troupes en excédent》(1927年)(中国の軍備)

栄典

注釈

  1. ^ 木槌を意味する「Maillet」に不定冠詞Desがついたもの。実際の発音は「ドゥメイユ」もしくは「ドゥマイユ」に近い。駐日公使代理当時の官報では「デュバイユ」(もしくは「ヂュバイユ」「デュバァイユ」)と表記しているが、明治41年以降の各公文書は「デマイエ」表記に落ち着いている[1]。ほか、著書の紹介文で「ドゥメイエ」と表記したケースもある。現在の報道や大学広報等では「Maillet」姓の人物を「マイエ」と表記しており[2][3]、日本語版Wikipediaでも「マイエ」表記の記事が存在する(例:ブノワ・ド・マイエロバート・マイエ)ため、本記事では先例に則り「デマイエ」とする。
  2. ^ 1948年以降は少将を指す。

出典

  1. ^ a b c 在清国仏国公使館附陸軍少佐ブリッソー、デマイエー叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112649400 
  2. ^ MSFC 『多文化共生チーム』第34回インタビュー”. 三重大学. 2025年5月1日閲覧。
  3. ^ 各国選手名鑑”. 読売新聞. 2025年5月1日閲覧。
  4. ^ Jean Boÿ (2011-03-02). Association des élèves et anciens élèves de l’École spéciale militaire de Saint-Cyr (Saint-Cyrienne). ed (フランス語) (pdf). Historique de la 72e promotion de l’École spéciale militaire de Saint-Cyr (1887-1889), promotion de Tombouctou. p. 3. http://www.saint-cyr.org/fichiers/promotions-eteintes/1887-1889-72e-promotion-de-tombouctou.pdf 
  5. ^ 『官報』第5310号・「宮廷録事」1901年(明治34年)3月19日。
  6. ^ 『官報』第5319号・「彙報」1901年(明治34年)3月30日。
  7. ^ [1]
  8. ^ 『官報』第5474号・「宮廷録事」1901年(明治34年)9月30日。
  9. ^ 『官報』第5770号・「告示」1902年(明治35年)9月26日。
  10. ^ 『官報』第5380号・「宮廷録事」1901年(明治34年)6月11日。
  11. ^ 陳存恭 (1978-6). “中國航空的發軔(1906-1929)” (PDF). 中央研究院近代史研究所集刊 (中央研究院近代史研究所) 7: 377. http://www.mh.sinica.edu.tw/MHDocument/PublicationDetail/PublicationDetail_1133.pdf 2019年12月10日閲覧。. 
  12. ^ 百年航空夢” (PDF) (中国語). 豊台故事文化周刊. 2017年10月30日閲覧。
  13. ^ 法国国家图书馆藏的广州湾文献(三)
  14. ^ 昭和期II第1部 第2巻 昭和8年(1933年)対中国関係 「長を満州国顧問に推薦の書簡伝達について」機密公第253号”. 日本外交文書デジタルコレクション. 2025年5月25日閲覧。

外部リンク

関連項目

  • コンスタンティン・フォン・ハンネケン中国語版
  • フェルトン・ホルト英語版



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