サカシチ・アールパードとは? わかりやすく解説

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サカシチ・アールパード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 05:41 UTC 版)

サカシチ・アールパード
Szakasits Árpád

サカシチ・アールパード(1949年撮影)

任期 1949年8月23日1950年5月8日
閣僚評議会議長 ドビ・イシュトヴァーン

任期 1948年8月3日1949年8月23日
首相 ディンニェーシュ・ラヨシュ
ドビ・イシュトヴァーン

ハンガリー共和国
第2代 産業大臣
任期 1948年2月26日1948年8月5日
首相 ディンニェーシュ・ラヨシュ

出生 1888年12月6日
オーストリア=ハンガリー帝国 ブダペスト
死去 (1965-05-03) 1965年5月3日(75歳没)
ハンガリー ブダペスト
政党 ハンガリー社会民主党
ハンガリー勤労者党
ハンガリー社会主義労働者党
配偶者 グロス・エンマ
シュナイダー・テレジア・マリア
子女 シフェルニ・サカシチ・クララ
(1918年 - 2001年)

サカシチ・アールパードハンガリー語: Szakasits Árpád, ハンガリー語発音: [ˈsɒkɒʃit͡ʃ ˈaːrpaːd], 1888年12月6日1965年5月3日)は、ハンガリー政治家大統領、大統領評議会議長を務めた。

生涯

前列もっとも左の人物がサカシチ、右隣の人物がラーコシ・マーチャーシュ(1948年)

彼は1888年、オーストリア=ハンガリー帝国ブダペストで生まれた。10代の頃から労働運動に参加し、ハンガリー社会民主党に入党。ハンガリー評議会共和国で人民委員を務めるものの、王政復古後も国内に留まり全国建設労組の委員長などを歴任した。

戦後、社民党の主導権を掌握しハンガリー共産党との合同を推進、ハンガリー勤労者党の結党に大きな役割を果たした。1948年8月2日にハンガリー第二共和国の大統領に就任、翌1949年8月23日にハンガリー人民共和国への体制移行に伴って国民議会幹部会議長(国家元首)に就任した。だが1950年4月26日に解任されて投獄、1956年に釈放されハンガリー動乱を経てジャーナリスト協会会長などを務めた。

サカシチは40年来のエスペランティストで、エスペラント大会に参加し、また彼は1959年の世界エスペラント大会の国際後援者委員会の委員でもあった[1]

参考

  1. ^ Esperanto #716 (1965), p. 131
先代
ティルディ・ゾルターン
ハンガリー共和国大統領
1948年 - 1949年
次代
(廃止)
先代
(新設)
ハンガリー人民共和国大統領評議会議長
1949年 - 1950年
次代
ローナイ・シャーンドル




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