サカシチ・アールパード
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サカシチ・アールパード Szakasits Árpád | |
サカシチ・アールパード(1949年撮影) | |
任期 | 1949年8月23日 – 1950年5月8日 |
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閣僚評議会議長 | ドビ・イシュトヴァーン |
任期 | 1948年8月3日 – 1949年8月23日 |
首相 | ディンニェーシュ・ラヨシュ ドビ・イシュトヴァーン |
任期 | 1948年2月26日 – 1948年8月5日 |
首相 | ディンニェーシュ・ラヨシュ |
出生 | 1888年12月6日 オーストリア=ハンガリー帝国 ブダペスト |
死去 | 1965年5月3日(75歳没) ハンガリー ブダペスト |
政党 | ハンガリー社会民主党 ハンガリー勤労者党 ハンガリー社会主義労働者党 |
配偶者 | グロス・エンマ シュナイダー・テレジア・マリア |
子女 | シフェルニ・サカシチ・クララ (1918年 - 2001年) |
サカシチ・アールパード(ハンガリー語: Szakasits Árpád, ハンガリー語発音: [ˈsɒkɒʃit͡ʃ ˈaːrpaːd], 1888年12月6日 – 1965年5月3日)は、ハンガリーの政治家。大統領、大統領評議会議長を務めた。
生涯
彼は1888年、オーストリア=ハンガリー帝国のブダペストで生まれた。10代の頃から労働運動に参加し、ハンガリー社会民主党に入党。ハンガリー評議会共和国で人民委員を務めるものの、王政復古後も国内に留まり全国建設労組の委員長などを歴任した。
戦後、社民党の主導権を掌握しハンガリー共産党との合同を推進、ハンガリー勤労者党の結党に大きな役割を果たした。1948年8月2日にハンガリー第二共和国の大統領に就任、翌1949年8月23日にハンガリー人民共和国への体制移行に伴って国民議会幹部会議長(国家元首)に就任した。だが1950年4月26日に解任されて投獄、1956年に釈放されハンガリー動乱を経てジャーナリスト協会会長などを務めた。
サカシチは40年来のエスペランティストで、エスペラント大会に参加し、また彼は1959年の世界エスペラント大会の国際後援者委員会の委員でもあった[1]。
参考
- ^ Esperanto #716 (1965), p. 131
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