コンスタンティノープル条約 (1736年)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > コンスタンティノープル条約 (1736年)の意味・解説 

コンスタンティノープル条約 (1736年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 06:00 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

コンスタンティノープル条約(コンスタンティノープルじょうやく、ペルシア語: معاهده استانبول‎、トルコ語: İstanbul Antlaşması)は1736年9月24日に締結された、オスマン帝国アフシャール朝ペルシアの講和条約。条約により、1730年から1735年までのオスマン・ペルシア戦争英語版が終結した。

背景

オスマン・ペルシア戦争の講和条約として、1732年にアフメト・パシャ条約が締結されたが、オスマン帝国のスルターンマフムト1世はタブリーズの放棄に同意せず、ペルシア軍の指揮官ナーディル・シャーはカフカースを失うことに同意しなかった。ナーディル・シャーは条約締結に同意したシャータフマースブ2世を廃位した。

戦争

アフメト・パシャ条約の締結直後、ナーディル・シャーはオスマン帝国に宣戦布告してイラクカフカースに侵攻した。イラクではキルクークなどを占領した後に撃退されたが、カフカースでは成功を収め、オスマン軍は2年内にトビリシからもイェレヴァンからも撤退した[1]。さらにロシア帝国クリミア・ハン国右岸ウクライナ侵攻を準備すると(オーストリア・ロシア・トルコ戦争[2]、オスマン帝国は講和を余儀なくされた。

条約の内容

オスマン代表アリー・パシャ(Ali Pasha)とアフシャール代表ミールザー・ムハンマド(Mirza Muhammed)はアフシャール朝領内で交渉をはじめ、まず話し合われた領土割譲はさほど問題にならなかった。しかし、続くコンスタンティノープルでの交渉においてスンナ派シーア派の承認について話し合われたため、議論が白熱した。最終的に締結された条約の内容は下記の通り。

  1. オスマン帝国はナーディル・シャーをペルシアのシャーとして承認する[3]
  2. オスマン帝国はカフカース地域をアフシャール朝に割譲する。
  3. オスマン帝国はペルシア人巡礼者によるオスマン領メッカへの巡礼を許可する。

その後

ペルシアはアフメト・パシャ条約により現イラン西部にあたる地域を、コンスタンティノープル条約によりカフカースを奪回したが、ナーディル・シャーはさらにイラクとアナトリア東部の併合も目指した。彼は1743年に宣戦布告した英語版が今度は成功せず、1746年のケルデン条約で講和した。

脚注

  1. ^ Prof. Yaşar Yüce-Prof. Ali Sevim: Türkiye tarihi Cilt IV, AKDTYKTTK Yayınları, İstanbul, 1991, pp. 4-8.
  2. ^ Nicolae Jorga: Geschichte des Osmanischen Reiches IV, (trans by Nilüfer Epçeli),İstanbul 2009, ISBN 975-6480-21-1 p. 345.
  3. ^ İstanbul Antlaşması (1736)” [イスタンブール講和条約(1736年)] (トルコ語). 2012年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年6月20日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「コンスタンティノープル条約 (1736年)」の関連用語

コンスタンティノープル条約 (1736年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



コンスタンティノープル条約 (1736年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのコンスタンティノープル条約 (1736年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS