コシャン (義王)とは? わかりやすく解説

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コシャン (義王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 02:26 UTC 版)

コシャンモンゴル語: Qošang、生没年不詳)は、モンゴル帝国大元ウルス)の皇族の一人。第5代皇帝クビライ・カアンの孫の威順王コンチェク・ブカの息子で、ウカアト・カアン(順帝トゴン・テムル)の側近としてボロト・テムル暗殺などに従事した事で知られる。『元史』などの漢文史料における表記は和尚


  1. ^ 『元史』巻207列伝94逆臣伝,「[至正]二十五年……威順王子和尚、受帝密旨、与徐士本謀、結勇士上都馬・金那海・伯顔達児・帖古思不花・火你忽都・洪宝宝等、陰図刺之。七月乙酉、値禿堅帖木児遣人来告上都之捷、孛羅帖木児起入奏、行至延春閣李樹下、伯顔達児自衆中奮出、斫孛羅帖木児、中其脳、上都馬及金那海等競前斫死」
  2. ^ 『元史』巻117列伝4寛徹普化伝,「寛徹普化、世祖之孫、鎮南王脱歓子也。……其子曰和尚者、封義王、侍従順帝左右、多著労效、帝出入常与倶。至正二十四年、孛羅帖木児称兵犯闕、遂為中書右丞相、総握国柄、恣為淫虐。和尚心忿其無君、数為帝言之。受密旨、与儒士徐士本謀、交結勇士上都馬・金那海・伯顔達児・帖古思不花・火你忽都・洪宝宝・黄哈剌八禿・龍従雲、陰図刺孛羅帖木児。帝期以事済、放鴿鈴為号、徐士本掌之。明年七月、孛羅帖木児入奏事、行至延春閣李樹下、伯顔達児自衆中奮出、斫孛羅帖木児、中其脳、上都馬等競前斫死之。詳見『孛羅帖木児伝』。二十八年、順帝将北奔、詔淮王帖木児不花監国、而以和尚佐之、及京城将破、即先遁、不知所之」


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