カール1世_(リヒテンシュタイン公)とは? わかりやすく解説

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カール1世 (リヒテンシュタイン公)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/28 14:05 UTC 版)

カール1世
Karl I.
リヒテンシュタイン侯
在位 1608年12月20日 - 1627年2月12日

出生 (1569-07-30) 1569年7月30日
神聖ローマ帝国モラヴィアヴァルチツェ
死去 (1627-02-12) 1627年2月12日(57歳没)
神聖ローマ帝国
ボヘミア王国プラハ
埋葬 チェコ東部、ヴラノフ・ウ・ブルナ、リヒテンシュタイン家霊廟
配偶者 アンナ・マリア・フォン・ボスコヴィッツ
子女 カール・オイゼビウス
家名 リヒテンシュタイン家
父親 ハルトマン2世
母親 アンナ・マリア・フォン・オルテンブルク
宗教 キリスト教プロテスタントカトリック
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カール1世Karl I. von Liechtenstein, 1569年7月30日 - 1627年2月12日[1])は、リヒテンシュタイン侯爵(在位:1608年 - 1627年)。初代リヒテンシュタイン侯である。

生涯

1569年、モラヴィアヴァルチツェにリヒテンシュタイン家ハルトマン2世の長子として生まれる。後の貴族制度では男爵に相当する下級領主貴族の家門であった。1599年にプロテスタントからカトリックに改宗した。ウィーンハプスブルク家の皇帝ルドルフ2世の取り立てで要職に就き、枢密顧問官から更には宮内長官を務め、ウィーン司教クレースルと並ぶ実力者であった。同家を特徴づける美術品収集は、カールが主君に影響され始まったものともいわれる。だが、ルドルフ2世とその弟マティアスとの争いではマティアス側に付き、1608年にマティアスより侯爵(帝国諸侯)の位を与えられた。これが今日のリヒテンシュタイン侯爵家の創始である。

白山の戦いにおいても皇帝フェルディナント2世の側に就き、戦いの首謀者とされたボヘミアのプロテスタント貴族たち27人の処刑を行なった。1622年には金羊毛騎士団の一員となっている。カールの代でリヒテンシュタイン家はシレジアのトロッパウやイェーゲルンドルフを公領とし、さらにボヘミアにも領地を獲得した。1627年、プラハで没。墓はチェコ東部のヴラノフ・ウ・ブルナにあるリヒテンシュタイン家の霊廟に安置されている。

プラハにあるリヒテンシュタイン宮殿[2]はカール1世が白山の戦いの後に所有し、暮らした宮殿である。

関連項目

  1. ^ Gebauer, Josef. “Karel Lichtenštejn” (チェコ語). Statutární město Opava: vládci. 2007年8月30日閲覧。
  2. ^ 現在はプラハ芸術アカデミー音楽学部の校舎およびコンサートホールとなっている。
先代
新設
リヒテンシュタイン侯
1608年 - 1627年
次代
カール・オイゼビウス
先代
ヨハン・ゲオルク
クルノフ公
1622年 - 1623年
次代
消滅



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