ウバイドゥッラー (元)とは? わかりやすく解説

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ウバイドゥッラー (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/18 13:52 UTC 版)

ウバイドゥッラー(ʿUbayd allāh、? - 1328年)は、大元ウルスに仕えた官僚の一人。『元史』などの漢文史料での表記は烏伯都剌もしくは兀伯都剌

概要

ウバイドゥッラーについては『元史』に列伝がなく、文宗本紀の記述によって「回回種人=ムスリム」であったことが分かるに過ぎない[1]。しかし、程鉅夫の文集である『雪楼集』巻2にはウバイドゥッラーの曾祖父母・祖父母・父母の三代に関する記述があり、その系譜がおおよそ判明する[1]。『雪楼集』によると、ウバイドゥッラーの曾祖父は「ムシャッラフ・ウッディーン(木沙剌福丁/Musharraf al-Dīn)」という人物で、「白旄黄鉞が西土にあらわれた(=チンギス・カン率いるモンゴル軍が中央アジアに現れた)時」、父子ともにこれに帰順したという[1][2]。ムシャッラフ・ウッディーンと、その息子のジャラール・ウッディーン(札剌魯丁/Jalāl al-Dīn)は東アジア方面に移住した後に学識優れた人物として知られたようで、ジャラール・ウッディーンは「チェルビ(察児必/Čerbi)」の地位を授けられている[1][3]

ウバイドゥッラーの活動が記録に残り始めるのはクルク・カアン(武宗カイシャン)の治世からで、即位直後の1307年(大徳11年)8月に宰相格の中書参知政事に任命された[4][5][6][7]。また、クルク・カアンの治世の後半の1310年(至大3年)から1311年(至大4年)3月にかけては、陝西行省左丞の地位にあったようである[7]

1311年(至大4年)初頭にクルク・カアンが急死すると、弟のアユルバルワダが仁宗ブヤント・カアンとして即位したが、事実上のクーデターによってクルク・カアン時代の宰相陣は多くが捕縛・処刑されてしまった[8]。しかし、このころ中央を離れていたウバイドゥッラーは粛清されることなくブヤント・カアン政権に招き入れられ[9]、同年3月には宰相格の中書右丞の地位を授けられた[10][6]。以後もブヤント・カアン政権にて重用され、1313年(皇慶2年)には平章政事に昇格し[11]1317年(延祐4年)には一時集賢大学士を経て[12]平章政事に復帰した[13]

しかし、1320年(延祐7年)始めにブヤント・カアンが死去すると、新たに即位したゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)によって同年2月にウバイドゥッラーは甘粛行省平章政事に転任し政権中枢を離れることとなった[14][15]。この頃、他にも地方に左遷もしくは処刑されたブヤント・カアン時代の重臣がおり、ゲゲーン・カアンによる政権中枢刷新の一貫としての人事であったと考えられている[16]。また、この後時期は不明であるが、ゲゲーン・カアンの治世末期まで江浙行省平章政事に転じている[17]

1323年(至治3年)の南坡の変を経て泰定帝イェスン・テムル・カアンが即位すると、左丞相ダウラト・シャーの下で色目人官僚が再び重用されるようになった[18]。10月28日、ウバイドゥッラーは江浙行省平章政事より中書平章政事に移り[19]1324年(泰定元年)4月からはカアンが不在となる夏期の大都留守を委ねられるようになった[20][21]。また、この頃には自然災害が頻発しており、泰定元年5月・泰定3年8月・泰定4年7月と、自然災害のもたらした被害に責任を取る形で辞任を求めたとの記録があるが、結局地位を退くには至っていない[22][23][24]

なお、『元史』宋本伝によると泰定帝の治世の初期は右丞相フメゲイが上位にあったが、その死後にダウラト・シャーやウバイドゥッラーら「西域人」が政権で重きをなすようになったという[25]。このころ、「西域の富裕な商人」が巨万の額で売却した「瓓(ペルシア語Lalの音写、ルビーを指す)」が未払いとなっていることが問題視されていた[25]。そこで、1326年(泰定3年)冬にウバイドゥッラーが中書省の宰執・僚佐を集め、彗星の出現や地震といった天変地異による大赦として、それまで中書省に献上されてきた諸物でもって報酬とする措置を行ったとの記録がある[26][25]

1328年(天暦元年)始めにイェスン・テムル・カアンが崩御すると、上都にてその息子のラジバグが即位する一方で、大都ではエル・テムルらがクーデターを起こしてトク・テムル(後の文宗ジャヤガトゥ・カアン)を擁立した(天暦の内乱)。『元史』明宗本紀・文宗本紀などによると、この年8月4日(新暦9月16日)黎明、エル・テムルは百官を興聖宮に招集し、居並ぶ者達に向かって「クルク・カアンには聖子が2人おられ、孝友仁文を備え、天下の正統は彼等にこそある。我らはまさにクルク・カアンの遺児を擁立すべく、従わぬ者があらば斬る」と宣言し、これに従わなかった平章政事ウバイドゥッラー・バヤンチャルらをまず捕縛したという[27][28][29][30]。その他にも、中書左丞朶朶・参知政事王士熙・参議中書省事トクト(脱脱)・呉秉道・侍御史テムゲ(鉄木哥)・丘世傑・治書侍御史トゴン(脱歓)・太子詹事丞王桓らイェスン・テムル・カアン政権の重臣達は皆捕らえられて獄に下され[31]、同年9月にはウバイドゥッラーとテムゲのみが処刑されることが決められた[32][29][33]

『元史』文宗本紀ではダウラト・シャーとウバイドゥッラーが「姦臣」であり、「密かに陰謀に通じて祖宗の成憲を変えた。既にその罪は明らかである。およそ回回種の人は天下の事を預けるべき者ではない」としてエル・テムルら一派が糾弾したと記される[34][35]。このためか、ジャヤガトゥ・カアン政権下ではイェスン・テムル・カアン治世下とは打って変わって色目人官僚は冷遇されるようになっている[36]。ウバイドゥッラーの没後、その資産は籍没とされ、前広東僉事の張世栄によって整理された上で[37]田宅はオロス(斡魯思)ら30人に[38]、珠衣は撒迪・趙世安らに下賜されている[39]

ムシャッラフ・ウッディーン家

ムシャッラフ・ウッディーン
木沙剌福丁
Musharraf al-Dīn
 
 
 
ファーティマ
法都馬氏
Fāṭima
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ジャラール・ウッディーン
札剌魯丁
Jalāl al-Dīn
 
 
 
忽八氏
hūbā?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イフティハール・ウッディーン
益福的哈魯丁
Iftikhār al-Dīn
 
 
 
ザイナブ
宰那不氏
Zainab
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ウバイドゥッラー
烏伯都剌
ʿUbayd allāh

脚注

  1. ^ a b c d 馬 2002, p. 175.
  2. ^ 『雪楼集』巻2 故曾祖父木沙剌福丁贈諡制,「中奉大夫中書参知政事烏伯都剌故曾祖父木沙剌福丁、贈昭文館大学士・資徳大夫、追封吉国公、諡忠懿制。士懐忠義、雖百世以如生、沢及子孫、乃積善之餘慶。睠予輔弼、亶有淵源。具官某故曾祖父某、以間世之才、得不伝之学。九州之外、五経之表、固自有人、三辰之運、六気之行、如指諸掌。知白旄黄鉞之顕西土、率簞食壺漿以迎王師、挙父子以偕来。至孫曾而方大是用。崇階進秩文館、陞華胙以名邦、錫之美諡。匪独栄其幽壌、抑以示於昕朝。於戯!徳闇而章、所以慰烝嘗之怵惕。世済其美、庶幾増門戸之光華。其服殊恩、以康乃後。可」
  3. ^ 『雪楼集』巻2 故祖父北京路木忽里兀察児必札剌魯丁贈諡制,「故祖父北京路木忽里兀察児必札剌魯丁、贈推誠宣力功臣光禄大夫・平章政事、追封吉国公、諡明襄制。天生賢佐、弼予一人。国有寵章、迨其三世。式彰孝治、載在賛書。具官某故祖父某官某、卓爾奇才、生於絶域。父子為師友、在家蓋有異、聞学術、貫天人、中国若合一契。於草昧而知天命、奮節義以迎王師。仕歴累朝、慶延後嗣。是用疇庸錫号、節恵易名。封肇啓於名邦、秩仍崇於宰路。載隆典礼、備極哀栄。於戯!逝不可追者親揚名以顕徳、何以加於孝、事君則忠、迪爾後人、歆予成命。可」
  4. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年八月]乙未……以治書侍御史兀伯都剌為中書参知政事」
  5. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年九月]丁丑、中書省臣言『比議省臣員数、奉旨依旧制定為十二員、右丞相塔剌海、左丞相塔思不花、平章床兀児。乞台普済如故、余令臣等議。臣等請以阿沙不花。塔失海牙為平章政事、孛羅答失・劉正為右丞、郝天挺・也先鉄木児為左丞、于璋・兀伯都剌為参知政事。其班朝諸司冗員、並宜柬汰』。従之」
  6. ^ a b 楊 2003, p. 216.
  7. ^ a b 楊 2003, p. 245.
  8. ^ 杉山 1995, pp. 116–119.
  9. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年]三月庚辰、召前枢密副使呉元珪・左丞兀伯都剌至京師、同諸老臣議事」
  10. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年三月]是月……以陝西行尚書省左丞兀伯都剌為中書右丞」
  11. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶二年]五月辛丑、陞中書右丞兀伯都剌為平章政事、左丞八剌脱因為右丞、参知政事阿卜海牙為左丞、参議中書省事禿魯花鉄木児為参知政事」
  12. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐四年夏四月]壬午……以翰林学士承旨赤因鉄木児為中書平章政事、中書平章兀伯都剌為集賢大学士」
  13. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐四年六月]己酉、兀伯都剌復為中書平章政事」
  14. ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐七年二月]戊寅、中書平章政事兀伯都剌罷為甘粛行省平章政事、阿礼海牙罷為湖広行省平章政事」
  15. ^ 楊 2003, pp. 247–248.
  16. ^ 楊 2003, pp. 222–223.
  17. ^ 楊 2003, p. 268.
  18. ^ 楊 2003, pp. 225–226.
  19. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[至治三年冬十月]丙戌、以江浙行省平章政事烏伯都剌為中書平章政事」
  20. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年夏四月]甲子、車駕幸上都。以諸王寛徹不花・失剌・平章政事烏伯都剌・右丞善僧等居守」
  21. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年二月]甲辰、車駕幸上都。命諸王也忒古不花及中書省臣烏伯都剌・察乃・善僧・許師敬・朶朶居守」
  22. ^ 『元史』巻29泰定帝本紀1,「[泰定元年五月]壬辰、御史台臣禿忽魯・紐沢以御史言『災異屡見、宰相宜避位以応天変、可否仰自聖裁。顧惟臣等為陛下耳目、有徇私違法者、不能糾察、慢官失守、宜先退避以授賢能』。帝曰『御史所言、其失在朕、卿等何必遽爾』。禿忽魯又言『臣已老病、恐誤大事、乞先退』。於是中書省臣烏伯都剌・張珪・楊廷玉皆抗疏乞罷」
  23. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定三年]八月甲戌、烏伯都剌・許師敬並以災変饑歉乞解政柄、不允」
  24. ^ 『元史』巻30泰定帝本紀2,「[泰定四年秋七月]丁巳、給斉王月魯帖木児印。伯顔察児・烏伯都剌以疾乞解政、優詔諭之」
  25. ^ a b c 楊 2003, p. 226.
  26. ^ 『元史』巻182列伝69宋本伝,「宋本、字誠夫、大都人。……旭滅傑死、左丞相倒剌沙当国得君、与平章政事烏伯都剌、皆西域人、西域富賈以其国異石名曰瓓者来献、其估巨万、或未酬其直。諸嘗有過、為司憲褫官、或有出其門下者。三年冬、烏伯都剌自禁中出、至政事堂、集宰執僚佐、命左司員外郎胡彝以詔稿示本、乃以星孛地震赦天下、仍命中書酬累朝所献諸物之直、擢用自英廟至今為憲台奪官者」
  27. ^ 『元史』巻31明宗本紀,「[歳戊辰]八月甲午黎明、召百官集興聖宮、兵皆露刃、号于衆曰『武皇有聖子二人、孝友仁文、天下帰心、大統所在、当迎立之、不従者死』。乃縛平章烏伯都剌・伯顔察児、以中書左丞朶朶・参知政事王士熙等下于獄」
  28. ^ 『元史』巻138列伝25燕鉄木児伝,「燕鉄木児、欽察氏、床兀児第三子。……泰定帝崩于上都、丞相倒剌沙専政、宗室諸王脱脱・王禅附之、利于立幼。燕鉄木児時総環衛事、留大都、自以身受武宗寵抜之恩、其子宜纂大位、而一居朔漠、一処南陲、実天之所置、将以啓之。由是与公主察吉児・族党阿剌帖木児及腹心之士孛倫赤・剌剌等議、以八月甲午昧爽、率勇士納只禿魯等入興聖宮、会集百官、執中書平章烏伯都剌・伯顔察児、兵皆露刃、誓衆曰……」
  29. ^ a b 宮 2018, p. 391.
  30. ^ 楊 2003, p. 227.
  31. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦元年]八月甲午、黎明、百官集興聖宮、燕鉄木児率阿剌鉄木児・孛倫赤等十七人、兵皆露刃、号于衆曰『武宗皇帝有聖子二人、孝友仁文、天下正統当帰之。今爾一二臣、敢紊邦紀、有不順者斬』。乃手縛平章政事烏伯都剌・伯顔察児、分命勇士執中書左丞朶朶・参知政事王士熙・参議中書省事脱脱・呉秉道・侍御史鉄木哥・丘世傑・治書侍御史脱歓・太子詹事丞王桓等、皆下之獄」
  32. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦元年九月]辛未……烏伯都剌・鉄木哥棄市、朶朶・王士熙・伯顔察児・脱歓等各流于遠州、並籍其家」
  33. ^ 楊 2003, p. 232.
  34. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦元年九月]戊寅、諭中外曰『近以姦臣倒剌沙・烏伯都剌、潜通陰謀、変易祖宗成憲、既已明正其罪。凡回回種人不預其事者、其安業勿懼。有因而扇惑其人者、罪之』」
  35. ^ 楊 2003, pp. 227–228.
  36. ^ 楊 2003, p. 228.
  37. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦元年冬十月]己酉……前広東僉事張世栄追理烏伯都剌家貲」
  38. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦元年十一月]乙丑、燕鉄木児請以烏伯都剌等三十人田宅賜斡魯思等三十人、従之」
  39. ^ 『元史』巻32文宗本紀1,「[天暦元年十一月]己卯、中書省臣言『内外流官年及致仕者、並依階叙授以制勅、今後不須奏聞』。制可。以也先鉄木児・烏伯都剌珠衣賜撒迪・趙世安」

参考文献




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