ウクライナ・コサックとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 15:47 UTC 版)
「クリミアの歴史」の記事における「ウクライナ・コサックとの関係」の解説
クリミア・ハン国が形成されたのと同じ15世紀頃、モスクワ大公国、リトアニア大公国とハン国との間の緩衝地帯となったステップ(現在のウクライナとロシアの南部)に住み着いた正教徒の人々が、コサック(コザーク、カザーク)と呼ばれる武装集団を形成した:85-87:157。1550年代、ウクライナ・コサックのヘトマン、ドミトロ・ヴィシネヴェツキー(英語版)は、コサックを軍事組織化し、ドニエプル川の中洲にタタールの侵入に対抗するための要塞を建設した。これにより形成されたザポロージャ・シーチ(英語版)のコサックは、クリミア半島やオスマン帝国への襲撃を行うようになった:109。 コサックがポーランド・リトアニア共和国からの自立を目指したフメリニツキーの乱(1648年-1657年)では、ヘトマンのボフダン・フメリニツキーはクリミア・ハン国と同盟して挙兵したが、度々タタール軍に裏切られたことから、ペレヤスラフ協定(1654年)でロシアと同盟を結び、後のヘーチマン国家の保護国化のきっかけを招いた:106-108:168-170。
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