イジャスラフ3世のキエフ侵攻
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「キプチャク」の記事における「イジャスラフ3世のキエフ侵攻」の解説
1161年、イジャスラフ3世はフセヴォロドの子ら,兄弟,オレーグ,ポロヴェッツ人と結合し、ペレヤスラヴリ公グレープのもとへ行って、キエフ大公ロスチスラフ1世攻撃を促したが、グレープはこれに応じなかった。これを聞いたロスチスラフ1世はペレヤスラヴリに兵を進め、トリポリに留まった。イジャスラフ3世はロスチスラフ1世が進軍しつつあることを知ると、ポロヴェッツ人らと共に逃げ去り、ヴイシゴロドの彼方の小教会(ツエルコフカ)に留まった。8日後、イジャスラフ3世らはドニェプル川を越え、キエフに向かって進軍した。ロスチスラフ1世はキエフで迎え撃ち、両軍が激烈に戦い、多くの戦死者をだした。この戦いでイジャスラフ3世が勝利し、ロスチスラフ1世はベルゴロドに遁走した。イジャスラフ3世はロスチスラフ1世を追ってベルゴロドを包囲した。
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