アントニ・ヴィルヘルム・ラジヴィウとは? わかりやすく解説

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アントニ・ヴィルヘルム・ラジヴィウ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 03:03 UTC 版)

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アントニ・ヴィルヘルム・ラジヴィウ
Antoni Wilhelm Radziwiłł

出生 (1833-07-31) 1833年7月31日
オーストリア帝国
ボヘミア王国テプリツェ
死去 (1904-12-16) 1904年12月16日(71歳没)
ドイツ国
プロイセン王国ベルリン
配偶者 マリー・ド・カステラーヌ
家名 ラジヴィウ家
父親 ヴィルヘルム・ラジヴィウ
母親 マティルデ・クラリー=アルトリンゲン
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アントニ・ヴィルヘルム・ラジヴィウ: Antoni Wilhelm Radziwiłł)またはアントン・ヴィルヘルム・フォン・ラジヴィウ: Anton Wilhelm Fürst von Radziwiłł, 1833年7月31日 - 1904年12月16日)は、プロイセン王国ポーランド系貴族、軍人。砲兵大将。侯爵(Fürst)/公爵(książę)ニャスヴィシュの第14代オルディナトクレツァクの第11代オルディナト。ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の側近で、その高級副官(Generaladjutant)を長年にわたって務めた。

生涯

ヴィルヘルム・ラジヴィウ侯の長男で、プロイセン領ポーゼン大公国の総督を務めたアントニ・ヘンリク・ラジヴィウ侯の嫡孫。1857年にフランス貴族のマリー・ド・カステラーヌ侯爵令嬢と結婚し、間に2男2女の4人の子女をもうけた。

1852年にプロイセン近衛砲兵連隊の少尉に任官し、1856年にはモスクワで行われたロシア皇帝アレクサンドル2世の戴冠式に出席する王太子ヴィルヘルム(後のヴィルヘルム1世)に随行している。1858年から1861年まではベルリン軍事アカデミーに通った。1866年の普墺戦争には近衛軍参謀本部付きの大尉として参加した。ヴィルヘルム1世の副官で腹心であり、エムス電報事件ではフランス大使ヴァンサン・ベネデッティ英語版伯爵の国王に対する無礼な要求に対し、拒否の意志を直接伝える役目を果たした。

ラジヴィウ侯夫妻はベルリンの邸宅に多くの客を迎え、妻のマリーはベルリン社交界を代表するサロニエールとして有名になった。ラジヴィウ侯家のサロンは帝国宰相オットー・フォン・ビスマルク侯爵の推進する文化闘争政策に反発していたポーランド人カトリック系の中央党の政治家たちが大勢集まり、ドイツ帝国の首都における反ビスマルク派の牙城となった。アントニ・ヴィルヘルムは帝国議会のポーランド会派(Polnische Fraktion)の指導者フェルディナント・ラジヴィウ侯の従兄であり、彼自身も1871年よりプロイセン貴族院の議員を務めた。

1885年に皇帝ヴィルヘルム1世の高級副官となり、その息子の皇帝フリードリヒ3世の短い治世でも同職にあったが、1888年に即位した年若いヴィルヘルム2世によって解任された。

参考文献

  • Meyers Großes Konversations-Lexikon, Band 16. Leipzig 1908, S. 564 Digitalisat


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