アレハンドロ・ルイディアス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 02:34 UTC 版)
|
||||||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | ||||||
| ラテン文字 | Alejandro RUIDIAZ | |||||
| 基本情報 | ||||||
| 国籍 | |
|||||
| 生年月日 | 1969年9月3日 | |||||
| 出身地 | アベジャネーダ | |||||
| 没年月日 | 2006年3月??日 | |||||
| 身長 | 172cm[1] | |||||
| 体重 | 69kg[1] | |||||
| 選手情報 | ||||||
| ポジション | MF | |||||
| クラブ1 | ||||||
| 年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
| 1986-1989 | |
|||||
| 1989-1990 | |
11 | (4) | |||
| 1990-1991 | |
|||||
| 代表歴 | ||||||
| 1985 | |
1 | (0) | |||
| 1989 | |
2 | (0) | |||
| 1988 | |
1 | (0) | |||
| 1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
||||||
アレハンドロ・ルイディアス(Alejandro Ruidiaz, 1969年9月23日 - 2006年3月)は、アルゼンチン出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。
経歴
CAインデペンディエンテの育成組織出身[2]。15歳の時にアルゼンチンJrユース代表に選出されフェルナンド・レドンドやウーゴ・マラドーナらとともに中国で開催された1985 FIFA U-16世界選手権に参加[3]。グループリーグ第3戦のコンゴ共和国戦に出場した[2][4]。17歳の時にトップチームに昇格し、当時10番を背負っていたリカルド・ボチーニの後継者と目された[3][5]。
1988年にアルゼンチン五輪代表に選出され、韓国で開催されたソウルオリンピックに参加[3]。グループリーグ初戦のアメリカ戦に出場[6]。1989年にはアルゼンチンユース代表に選出され、ディエゴ・シメオネやロベルト・ボナーノらとともにサウジアラビアで開催された1989 FIFAワールドユース選手権に参加[3]。グループリーグ初戦のスペイン戦、準々決勝のブラジル戦の2試合に出場した[7][8]。
同年12月2日、日本サッカーリーグ (JSL) 1部の東芝サッカー部に加入[9]。翌12月3日に行われたJSL1部第11節のフジタ戦でデビューし[10]、1990年1月29日に行われた第12節の本田技研戦で初得点を決めた[10]。東芝ではリーグ戦11試合に出場し4得点1アシストを記録した[10]。
同年8月、インデペンディエンテに復帰したが、直後に交通事故に遭遇したため離脱を余儀なくされた[3][11]。さらに1991年12月以降は膝の怪我のため実戦から遠ざかった[3]。インデペンディエンテでの通算成績は30試合出場3得点[5]。退団後の1992年9月にCAリーベル・プレートとの間で契約寸前まで話が進んだが、運動能力テストの際に先天性の心臓の問題が見つかり破断[3][11]。23歳の若さで現役を引退した[3]。
個人成績
日本国内成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1989-90 | 東芝 | 30 | JSL1部 | 11 | 4 | - | 0 | 0 | 11 | 4 | |
| 通算 | 日本 | JSL1部 | 11 | 4 | - | 0 | 0 | 11 | 4 | ||
| 総通算 | 11 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 11 | 4 | |||
代表歴
- U-17アルゼンチン代表
- 1985年 - U-16世界選手権出場
- オリンピックアルゼンチン代表
- 1988年 - ソウルオリンピック出場
- U-20アルゼンチン代表
- 1989年 - FIFAワールドユース選手権出場
脚注
- ^ a b 「JSL1部・後期1月27日スタート 古河、苦戦必至?日産V2へ自信」『サッカーマガジン』1990年3月号、ベースボール・マガジン社、 152-154頁。
- ^ a b “Technical Report CHINA '85 (PDF)”. FIFA.com. p. 25. 2011年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c d e f g h “Ruidiaz Un proyecto de crack con el corazón herido.”. LA NACION (1999年10月28日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Alejandro RUIDIAZ”. FIFA.com. 2016年9月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c d “DOLOR EN INDEPENDIENTE POR LA MUERTE DE RUIDIAZ”. POPULAR (2005年3月29日). 2021年10月16日閲覧。
- ^ “XXIV. Olympiad Seoul 1988 Football Tournament”. rsssf.com. 2021年10月16日閲覧。
- ^ “Technical Report SAUDI ARABIA 89 (PDF)”. FIFA.com. p. 31. 2011年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月16日閲覧。
- ^ “Technical Report SAUDI ARABIA 89 (PDF)”. FIFA.com. p. 42. 2011年11月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月16日閲覧。
- ^ 「日本リーグ1部情報」 『サッカーマガジン』 1990年2月号、ベースボール・マガジン社、212頁。
- ^ a b c 日本サッカーリーグ 編 『日本サッカーリーグ・イヤーブック '90→'91』日本サッカーリーグ、1990年、52,104-105,120頁。
- ^ a b “Corazón valiente”. Ole.com. 2019年3月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月16日閲覧。
参考文献
- 『1990-1991JSLイヤーブック』日本サッカーリーグ編、南雲堂、1990 ISBN 4-523-31032-7
- 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993
外部リンク
固有名詞の分類
| アルゼンチンのサッカー選手 |
ロドリゴ・パラシオ アニバル・マテジャン アレハンドロ・ルイディアス クラウディオ・ロペス ヘルマン・ルクス |
| 東芝サッカー部の選手 |
櫛引実 アレハンドロ・ルイディアス 浅沼達也 ウーゴ・デレオン エドアルド・アセベド |
- アレハンドロ・ルイディアスのページへのリンク