アレクサンドラ・ザベリナとは? わかりやすく解説

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アレクサンドラ・ザベリナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 09:03 UTC 版)

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アレクサンドラ・ザベリナ
Alexandra Zabelina
1960年オリンピックのソ連フルーレチーム、右から3番目がザベリナ選手
個人情報
生誕 (1937-03-11) 1937年3月11日
ソビエト連邦 ロシアSFSRモスクワ
死去 2022年3月27日(2022-03-27)(85歳)
身長 1.57 m (5 ft 2 in)
体重 58 kg (128 lb)
スポーツ
競技 フェンシング
クラブ Dynamo Moscow[1]
担当コーチ レフ・サユチュク(en:Lev Saychuk[1]
獲得メダル
ソビエト連邦
オリンピック
1960 ローマ フルーレ団体
1968 メキシコシティ フルーレ団体
1972 ミュンヘン フルーレ団体
世界選手権
1956 ロンドン フルーレ団体
1957 パリ フルーレ個人
1961 トリノ フルーレ団体
1963 グダニスク フルーレ団体
1965 パリ フルーレ団体
1966 モスクワ フルーレ団体
1967 モントリオール フルーレ個人
1970 アンカラ フルーレ団体
1971 ウィーン フルーレ団体

アレクサンドラ・ザベリナ英語Alexandra Zabelinaロシア語Александра Ивановна Забелина1937年3月11日 - 2022年3月27日)は、ソビエト連邦フェンシング(フルーレ)選手。オリンピックの1960年ローマ大会68年メキシコシティ大会72年ミュンヘン大会のフルーレ団体で金メダルを獲得している[2][3]

生涯

もとは体操選手であったが、怪我をしたために辞めざるを得ず、1951年に近所の少年に誘われる形でフェンシングのチームに入る。ディナモ・モスクワ(«Динамо» Москва)というチームでプレーし、コーチの1人にレフ・サイチュク(Лев Сайчук)がいた[4]。1957年から1971年にかけては、オリンピックの1960年ローマ大会68年メキシコシティ大会72年ミュンヘン大会のフルーレ団体で金メダルを獲得し[3]、さらに世界選手権でもフルーレ団体で7度、同個人戦で2度優勝している。なお、64年東京大会フェンシング競技には子供を妊娠していたため出場していない[5]

引退後は、1986年に名誉コーチ(ru:Заслуженный тренер)になり、後に2000年シドニーオリンピックエペ団体で金メダルを獲得することになるマリア・マジーナ(en:Maria Mazina)選手を育成した。2022年3月27日没、享年86であった[6][7][8]

脚注

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