オーガスタス・ハーヴィー (第3代ブリストル伯爵)とは? わかりやすく解説

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オーガスタス・ハーヴィー (第3代ブリストル伯爵)

(アウグストゥス・ハーヴェイ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/31 08:32 UTC 版)

第3代ブリストル伯爵
トマス・ゲインズバラによる肖像画、1767年/1768年
生誕 1724年5月19日
グレートブリテン王国ダービーシャー
死没 1779年12月23日
グレートブリテン王国ロンドンセント・ジェームズ・スクエア英語版
埋葬地
所属組織  イギリス
部門  イギリス海軍
軍歴 1735年 - 1775年
最終階級 提督英語版
指揮 プリンセス英語版
フェニックス
ディファイアンス英語版
ハンプトン・コート英語版
モンマス英語版
ドラゴン
センチュリオン
地中海艦隊
戦闘 ミノルカ島の海戦
ベル=イル占領
マルティニーク島侵攻
ハバナの戦い
配偶者 エリザベス・チャッドリー英語版

第3代ブリストル伯爵オーガスタス・ジョン・ハーヴィー提督英語版英語: Augustus John Hervey, 3rd Earl of Bristol PC (Ire)1724年5月19日 - 1779年12月23日[1])は、イギリス海軍士官、政治家。七年戦争において、1756年5月のミノルカ島の海戦ポスト・シップのフェニックスの艦長を務め、1761年6月のベル=イル占領、1762年1月のマルティニーク島侵攻、1762年6月のハバナの戦い3等艦ドラゴンの艦長を務めた後、アイルランド担当大臣英語版(在任:1766年 - 1767年)と第一海軍卿(在任:1771年 - 1775年)を歴任した。女性遍歴により「イギリスのカサノヴァ」と呼ばれた。

初期の経歴

ハーヴィーは第2代ハーヴィー男爵の次男として生まれ、1733年よりウェストミンスター・スクールで教育を受けた[2]。1735年にイギリス海軍に入隊[2]、1740年に大尉英語版に昇進した[3]

軍歴

ジョシュア・レノルズによる肖像画

1747年1月15日に勅任艦長英語版に昇進した後、3等艦プリンセス英語版の指揮を委ねられ、1752年1月にポスト・シップのフェニックスの艦長に任命され1756年5月のミノルカ島の海戦に参加した[2]。同1756年5月には4等艦ディファイアンス英語版の指揮を、1757年5月に3等艦ハンプトン・コート英語版の指揮を、1758年3月に3等艦モンマス英語版の指揮を執った[2]

フランス艦との遭遇戦で戦功を立て、1759年にはエドワード・ホーク提督の大きな助力となったが、11月のキブロン湾の海戦以前に帰国した。その後、1760年3月に3等艦ドラゴンの指揮を執り、1761年6月のベル=イル占領、1762年1月のマルティニーク島侵攻、1762年6月のハバナの戦いに参戦、1763年5月に4等艦センチュリオンの指揮を執った[2]

1763年2月にパリ条約が締結されて七年戦争が終結するまで、西インド諸島ジョージ・ロドニーの下で戦功を立てた。終戦以降に海戦を行うことはなくなったが、名目上の地中海艦隊指揮官を務めた[4]。1775年3月31日に少将英語版[5]、1778年1月23日に中将英語版に昇進した[6]。女性遍歴により「イギリスのカサノヴァ」と呼ばれた[7](ハーヴィーとカサノヴァは同時代の人物である)。

政歴

1757年から1763年までバーリー・セント・エドマンズ選挙区英語版の議員を、1763年から1768年までソルタッシュ選挙区英語版の議員を、1768年から1775年までバーリー・セント・エドマンズ選挙区の議員を務め、1775年にブリストル伯爵を継承して貴族院に移籍したため以降は庶民院での被選挙権を失った。ハーヴィーはたびたび議会の弁論に参加、定期刊行物にも頻繁に寄稿した。1765年から1766年までの第1次ロッキンガム侯爵内閣の野党であり、ともに海軍を務めたオーガスタス・ケッペル提督を強く弁護した[8]。1763年から1775年まで国王ジョージ3世寝室宮内官英語版を務め、1766年から1767年までアイルランド担当大臣英語版を務めた[3]。1771年2月にはノース内閣第一海軍卿になり[9]、1775年4月に辞任した[10]

私生活

エリザベス・チャッドリー英語版

1744年8月、エリザベス・チャッドリー英語版(1720年 - 1788年、後のキングストン=アポン=ハル公爵夫人)と秘密結婚したが、1769年に離婚した[11]。彼は1775年に元画家モデルのメアリー・ネスビット英語版を愛人とし、2人はサリーノーウッド・ハウス英語版に住んだ。ブリストル伯爵は遺言状でネスビットに財産を残した[12]。このように、ブリストル伯爵は嫡出子がいなかったが、財産の継承を爵位の継承からできるだけ分離した[11]。彼はノーウッド・ハウスに馬小屋を設けるなどの改装を行った。1779年12月23日、痛風によりロンドンセント・ジェームズ・スクエア英語版で死去、サフォークイックワース英語版に埋葬された。爵位は弟のフレデリック英語版が継承した[3]

ブリストル伯爵の手紙の多くがパブリック・レコード・オフィス英語版(現イギリス国立公文書館の前身)に保存されており、航海日誌は大英博物館に保存された[11]。それ以外の手紙はGrenville Papers, vols. iii. and iv. (London, 1852–1853)とLife of Admiral Keppel, Rev. Thomas Keppel (London, 1852)で出版された[11][8]。1770年5月22日、ジェームズ・クックは航海中に発見したオーストラリアクイーンズランド州ハーヴィー湾英語版をブリストル伯爵に因んで命名した[13]。また、ジェームズ・クックは1778年7月にも現米国アラスカ州南西部にあるブリストル湾英語版をブリストル伯爵にちなんで命名した。それ以外にもサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島ブリストル島南クック諸島(別名「ハーヴィー諸島」)もクックがブリストル伯爵に因んで命名した地名である[14]

脚注

  1. ^ Courtney, William Prideaux (1891). "Hervey, Augustus John" . In Stephen, Leslie; Lee, Sidney (eds.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 26. London: Smith, Elder & Co.
  2. ^ a b c d e Lord Augustus John Hervey (1724-1779)”. Three Decks. 2017年7月24日閲覧。
  3. ^ a b c Augustus Hervey, 3rd Earl of Bristol” (英語). Burke’s Peerage. 2017年7月24日閲覧。
  4. ^ Mackay, Ruddock. "Hervey, Augustus John, third earl of Bristol". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/13109 (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  5. ^ "No. 11549". The London Gazette (英語). 1 April 1775. p. 1.
  6. ^ "No. 11843". The London Gazette (英語). 27 January 1778. p. 2.
  7. ^ All aboard the exhausting naval adventures of Augustus Hervey”. Rogues Gallery. 2017年7月24日閲覧。
  8. ^ a b Keppel, p. 353.
  9. ^ Rodger, p. 69.
  10. ^ Sainty, JC, Lord High Admiral and Commissioners of the Admiralty 1660-1870, Office-Holders in Modern Britain: Volume 4: Admiralty Officials 1660-1870 (1975), pp. 18-31.”. 2014年10月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年9月4日閲覧。
  11. ^ a b c d Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Bristol, Earls and Marquesses of" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 4 (11th ed.). Cambridge University Press. pp. 575–576.
  12. ^ Stevenson, Janet H. (2004). "Nesbitt (née Davis), Mary". Oxford Dictionary of National Biography (英語) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/63409/ (要購読、またはイギリス公立図書館への会員加入。)
  13. ^ Parkin, Ray英語版. H. M. Bark Endeavour, Miegunyah Press, 2nd edition 2003, ISBN 0-522-85093-6
  14. ^ 20 ways Brand Bristol has made city famous”. Bristol 24/7. 2017年7月24日閲覧。

参考文献

関連図書

  • Holmes, M J R (1996). Augustus Hervey - A Naval Casanova. Durham: Pentland Press.

外部リンク

グレートブリテン議会英語版
先代
フェルトン・ハーヴィー英語版
ユーストン伯爵
庶民院議員(バーリー・セント・エドマンズ選挙区英語版選出)
1757年 - 1763年
同職:フェルトン・ハーヴィー英語版 1757年 - 1761年
チャールズ・フィッツロイ英語版 1761年 - 1763年
次代
チャールズ・フィッツロイ英語版
ウィリアム・ハーヴィー英語版
先代
ジョン・クレヴランド英語版
ジョージ・アダムズ英語版
庶民院議員(ソルタッシュ選挙区英語版選出)
1763年 - 1768年
同職:ジョージ・アダムズ英語版
次代
マーティン・ホーク
トマス・ブラッドショー英語版
先代
チャールズ・フィッツロイ英語版
ウィリアム・ハーヴィー英語版
庶民院議員(バーリー・セント・エドマンズ選挙区英語版選出)
1768年 - 1775年
同職:チャールズ・フィッツロイ英語版 1768年 - 1774年
サー・チャールズ・デイヴァース準男爵英語版 1774年 - 1775年
次代
サー・チャールズ・デイヴァース準男爵英語版
ヘンリー・シーモア・コンウェイ
公職
先代
ビーチャム子爵
アイルランド担当大臣英語版
1766年 - 1767年
次代
セオフィラス・ジョーンズ英語版
軍職
先代
フランシス・ホルバーン英語版
上級海軍卿として
第一海軍卿
1771年 - 1775年
次代
サー・ヒュー・パリザー英語版
グレートブリテンの爵位
先代
ジョージ・ハーヴィー
ブリストル伯爵
1775年 - 1779年
次代
フレデリック・ハーヴィー英語版



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