そのほかの下寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/01 05:18 UTC 版)
「興宗寺 (福井市)」の記事における「そのほかの下寺」の解説
1612年(慶長17年)のものと考えられる本願寺の坊官である下間仲孝の書状によると、興宗寺には性玄寺・慶崇寺・浄善寺・千福寺の下寺があったことが分かる。書状の内容としては、「興宗寺の家督に関して、第八世誓了の譲状に記されるごとくに、第十世心願から「少輔」に譲り渡すべしとの准如の意向である。また、性玄寺・慶崇寺・浄善寺・千福寺の座配については「少輔」の指示に従うように」という安堵状である。(少輔は第十一世心了のことである。第九世祐了が早世であった為、加州興宗寺の次男であった心願が儲けていた子息(幸菊、長じて少輔、得度して心了)を迎えることにしたが、まだ幼かった為、父の心願も共に迎え第十世となった。しかし暫定的な住持だったようで住持職に就いていたのは約12年間である) この文書に知られるように、興宗寺を「本寺」とする下寺が少なくとも4ヶ寺はあった。またこの他にも山下道場などの道場も含め下寺や掛所が数か所はあったようである。 明治中期の西本願寺「末寺附属下寺調査簿」によると興宗寺の下寺は1ヶ寺だけになっている。この1ヶ寺は山下道場から発展した西念寺のことである。この頃までには他の下寺は西本願寺の直参寺院となっていたようだ。また既述ではあるが西念寺も後に吉崎寺として独立し、西本願寺の直参となっている。
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