おまんの流行と衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/15 03:45 UTC 版)
このおまんが飴売りは評判を呼び、子供から大人へ、やがては芸者の間にも伝播し、お座敷の芸として真似る者までいた。やがて天保10年(1839年)に浄瑠璃外題『花翫暦色所八景』で4代目中村歌右衛門がおまんの姿を演じ、その姿を歌川国芳や歌川国貞によって描かれ、大流行となった。この後“おまん”の元には歌右衛門から仕着せが贈られ、その商売は益々繁盛した。国芳が天保10年頃に出した『当世流行見立』の中では、獅子舞や住吉踊り、太神楽といったおめでたい大道芸人たちの中におまんが飴売りの姿もある。 だが、天保13年(1842年)に天保の改革による綱紀粛正によって異体の商売が禁じられると、『芥談語』なる書によれば、「今は笠前掛もなく、裾端折り(すそしょっぱり)て来る、余程老いたり云々」とあり、朝倉無声は変哲もない物売りとして余生を過ごしたとしている。
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