9月30日事件 事件の推移

9月30日事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/11 05:12 UTC 版)

事件の推移

事件後、インドネシア政府による公式見解としては、同情報省が1965年12月に発表したプレスリリースによる説明があるが、これに全面的に依拠することはできない。以下は、二次資料を参照した記述であり、慎重な検討を要する箇所もあるので留意されたい。

軍事クーデター勃発

1965年9月30日(木曜日)深夜、首都ジャカルタにおいて、インドネシア共産党のディパ・ヌサンタラ・アイディット議長からの指示を受けた大統領親衛隊第一大隊長のウントゥン・ビン・シャムスリ中佐(Untung bin Syamsuri, 1926年 - 1966年)率いる部隊が軍事行動を開始した。ハリム空軍基地の空軍作戦司令部に拠点を置いたこの部隊は、翌10月1日未明までに、陸軍の高級将校6名をそれぞれの自宅で殺害、または瀕死の重傷を負わせた。

殺害されたのは、

  • 陸軍司令官アフマド・ヤニ中将
  • 陸軍司令官第二代理スプラプト少将
  • 陸軍司令官第三代理マス・ティルトダルモ・ハルヨノ少将
  • 陸軍司令官第一補佐官シスウォンド・パルマン少将
  • 陸軍司令官第四補佐官ドナルド・イザクス・パンジャイタン准将
  • 陸軍査察部長ストヨ・シスウォミハルヨ准将

の6人であった。

襲撃を受け足を負傷したアブドゥル・ハリス・ナスティオン大将(10月1日

なお、国防治安相・国軍参謀総長であったアブドゥル・ハリス・ナスティオン大将も襲撃を受けたが辛くも殺害を免れた。身代わりに、彼の個人副官ピエール・テンデアン中尉と娘が射殺されている。

クーデター部隊はこの7人の遺体、もしくは重傷を負った瀕死の体を、ハリム空軍基地近くのルバン・ブヤアに軍用トラックで連れ込んだ。

ラジオ局占拠

1965年9月30日当時のムルデカ広場

またクーデター部隊はジャカルタの国営ラジオ局(Radio Republik Indonesia-RRI)を占拠し、「9月30日運動司令部」と名乗って、10月1日朝にRRIを通じて全インドネシアに向けて「インドネシア革命評議会」の設置を宣言した。

RRIのラジオを通じ「インドネシア革命評議会」は、これらの陸軍将校が「将軍評議会」を結成して政権転覆のクーデターを準備しており、それを阻止するために決起した、と説明した。また、ここ数か月体調がすぐれなかったスカルノ大統領は、「9月30日運動司令部」の下で安全に保護されていると話した。

シャムスリ中佐率いる「9月30日運動司令部」らクーデター司令部は陸軍を混乱下に置き、さらに共産党傘下の共産主義青年団(プムダラヤット)や共産主義婦人運動(ゲルワニ)も行動を開始し、10月1日の昼過ぎには一度は混乱したカリマンタンやボゴールのインドネシア陸軍を掌握するように見えた。

クーデター制圧

10月1日朝の「インドネシア革命評議会」からのRRIのラジオ放送があるまでは、スカルノ大統領とジャカルタの陸軍の一部を除き、クーデターが勃発したことを知る者はいなかった。しかし、陸軍の主だった首脳が死亡・逃亡し最高司令官が不在となったことにより、一時的に陸軍最高位に立つこととなった戦略予備軍司令官スハルト少将は、1日の朝に速やかに指揮下の部隊を展開してクーデター鎮圧を開始した。

スハルト少将らは、「9月30日運動司令部」らクーデター司令部が押さえたムルデカ広場にある戦略予備軍司令部に入り込むことに成功し、また即座に全陸軍の司令官に平服で行動するように要請し、反乱軍と正規軍を見分けることを容易にした。さらに「9月30日運動司令部」が占拠していたRRIのラジオ局やハリム空軍基地をはじめとする要所を、1日夜から2日朝までに陸軍空挺部隊などで制圧した。なお陸軍部隊を中心とした制圧に「9月30日運動司令部」らクーデター司令部はほぼ無抵抗であった。

さらに陸軍は、運動に呼応した共産党傘下の共産主義青年団や共産主義婦人運動も排除することに成功し、最終的に10月2日の午後には全軍がジャカルタを戒厳令下に置き、シャムスリ中佐率いる部隊は次々と逮捕され、一部は逃亡した。ここに共産主義者によるクーデターは完全に失敗し、首謀者とみられるアイディット共産党議長はハリム空軍基地より逃亡した(11月に射殺された)。

なおクーデター発生からここまでの間、スカルノ大統領からは何の声明もなく、「9月30日運動司令部を敵とみなし総攻撃せよ」とラジオで声明を出したのは、クーデターがほぼ終結し、スハルトと会談した後の10月2日の事であった。

スカルノの関与疑惑

スカルノとキューバフィデル・カストロとともに(1960年)

事件当日、スカルノ大統領はデヴィ・スカルノ第三夫人の公邸であるヤソオ宮殿に宿泊後、1日午前6時過ぎに大統領宮殿に向かう大統領専用車の中でクーデターの勃発を知った。その直後第二夫人のハルティニの住んでいるボゴール宮殿に入り、電話で情報収集をした。

その後なぜかクーデター部隊の本拠地となったハリム空軍基地に向かった。その後「9月30日運動司令部」と近いスパルジョ准将と基地内で会い、その後もクーデターに対する態度をあいまいにしたまま、ほぼ半日間ハリム空軍基地内に滞在し、午後8時過ぎになり大統領専用車で再びボゴール宮殿に向かった。

クーデターの失敗が明らかになった2日の午後になり、スカルノ大統領はスハルト少将と会談し、ようやく全軍に対し「9月30日運動司令部は反乱軍であり、インドネシアの全軍は戦うよう」に指示を出した。しかしスカルノ大統領がなぜここまで沈黙を守ったのかは謎である。

このようなスカルノ大統領のクーデター時の行動に対し、「インドネシア共産党と親しいことで知られたハルティニ邸に行った」、「その後、クーデター部隊の本拠地となったハリム空軍基地にわざわざ向かった」ことや、「クーデター発生に対してすぐにラジオなどで反クーデター宣言を出さなかった」ことなど、スハルト少将ら軍首脳部はスカルノ大統領の曖昧な態度に訝しみを抱き、スカルノ大統領は事件への関与を疑われる厳しい立場に追い込まれた。

遺体発見

暗殺された国軍将校の葬儀を訪れたスハルト(10月5日

その後10月3日に、クーデター指令室が置かれていたジャカルタのハリム空軍基地近くのルバン・ブヤアで、古井戸に投げ込まれていた6人の将軍と1人の将校の遺体が発見された。

これらは瀕死、もしくは死体となってルバン・ブヤアに運び込まれた後、居合せた共産党の若者たちにナイフやこん棒などで滅多打ちにされ、古井戸に投げ込まれた。死体は深い井戸に投げ込まれたせいもあり回収に難航し、4日にすべて回収された。

その後5日のインドネシア軍建軍記念日に、7人の合同葬儀がスハルト少将も訪れた上でカリバタ英雄墓地において大々的に行なわれ、テレビやラジオで世界各国に放映された。その模様を知らされた国民は、インドネシア共産党の起こした事件の残忍さに震撼し、これまで一定の支持を受けていたインドネシア共産党に対する国民からの評価は地に落ちた。

しかしここでもスカルノ大統領はなぜか葬儀に参列しなかったため、ただでさえ膨らんだスカルノ大統領に対する軍内部の疑惑は、頂点に達した。


  1. ^ 西村眞悟は、この事件の最大の原因として、インドネシアに共産主義政権を樹立しようという中国共産党の意向があり、中華人民共和国首相であった周恩来がクーデターの謀略を主導していたと主張しているが出典:西村眞悟の時事通信バックナンバー 平成17年(2005年)5月23日付。なお、ユン・チアンも著書『マオ』の中で、類似の指摘をしている。
  2. ^ 事件が9月30日に起きたのも、翌10月1日の中華人民共和国建国記念日で、同国首脳の周恩来がインドネシアに新たな共産党政権が樹立できたことを天下に発表できるタイミングを狙ったとされる。
  3. ^ CIAは9・30事件の報告書でジャカルタを「クーデターに理想的な都市」と報告しており、事件から8年後の1973年に発生したチリのアウグスト・ピノチェトによるクーデターチリ・クーデター)を「オペレーション・ジャカルタ」と呼称している。
  4. ^ “インドネシア “埋もれた虐殺”語り始める”. NHK. (2015年6月10日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150610/k10010108971000.html 2015年6月13日閲覧。 
  5. ^ “虐殺者は、なぜ喜々として殺人を「再現」したのか? 映画「アクト・オブ・キリング」が映す人間の闇”. NewSphere. (2014年4月11日). http://newsphere.jp/entertainment/20140411-2/ 2015年6月13日閲覧。 
  6. ^ Roosa, 2006.
  7. ^ Sulistyo, 2000.
  8. ^ Transforming Taiwan-Indonesia Ties In 21st Century: New Challenges – Analysis”. Eurasian Review (2018年5月3日). 2019年7月19日閲覧。
  9. ^ a b c 馬場公彦 2016, p. 16
  10. ^ a b c 馬場公彦 2016, p. 20
  11. ^ 馬場公彦 2016, p. 25
  12. ^ a b 馬場公彦 2016, p. 17
  13. ^ 吉村英輝 (2016年6月2日). “毛沢東がスカルノ政権に核技術供与の意向? 研究者の論文が脚光”. 産経新聞. オリジナルの2021年2月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210224232703/https://www.sankei.com/world/news/160602/wor1606020032-n1.html 
  14. ^ 吉村英輝 (2016年6月2日). “毛沢東がスカルノ政権に核技術供与の意向? 研究者の論文が脚光”. 産経新聞. オリジナルの2018年7月31日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180731031620/https://www.sankei.com/world/news/160602/wor1606020032-n2.html 
  15. ^ 馬場公彦 2016, p. 27
  16. ^ 馬場公彦 2016, p. 23
  17. ^ 馬場公彦 2016, p. 21
  18. ^ 馬場公彦 2016, p. 22
  19. ^ 2014年アジアフォーカス・福岡国際映画祭公式サイト
  20. ^ “デヴィ夫人、インドネシア大虐殺の真実を暴いた米監督に感謝「真実は必ず勝つ」”. eiga.com (eiga.com). (2014年3月25日). https://eiga.com/news/20140325/17/ 2014年4月27日閲覧。 






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