銀座 (歴史)
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定位銀貨の鋳造
明和9年8月14日(1772年)、川井久敬は銀座人および常是を召出し、南鐐二朱銀の吹方につき申渡した。しかし南鐐は上銀を意味し品位の改めは無用であるとし常是は銀改めを辞退して目方改めのみを担当することとなった。そこで常是は目方を改めた定位銀貨に「定」の極印を打つこととなり以降、南鐐二朱銀、一分銀、一朱銀はすべて定の極印が打たれている。また従来包銀は常是が担当していたが、南鐐二朱銀から銀座が担当する銀座包となり200枚毎の二十五両包となった。これ以降常是の役割は縮小した。
定位銀貨はもっぱら江戸の銀座において鋳造され、次第に鋳造額が増大し文政、天保年間には丁銀の鋳造を圧倒するまでに至った。
定位銀貨は銀を素材とすることから鋳造は銀座が担当したが、これらは「金代り通用の銀」として本来小判の通貨単位のものであり[注釈 1]、鋳造法も地金を一定量目になるように切取り、延して極印打ちをするといった、一分判のような金貨鋳造に準ずる工程となった[35]。
丁銀の鋳造工程
銀貨鋳造の吹元銀は、諸国の私領銀山より産出される灰吹銀および世上流通の灰吹銀を買い上げ、丁銀に吹き立てる自家営業形式の買灰吹銀(かいはいふきぎん)(寄銀)と、石見、生野、佐渡などの天領にある銀山から上納される、公儀灰吹銀(こうぎはいふきぎん)(御銀)があった[22][23][36]。
銀座釻場(ませば)
吹元銀として、幕府御金蔵より渡す灰吹銀、回収された古銀、銀座が買い上げた灰吹銀などがある。釻とは灰吹銀の意味である。吹元銀は銀座役所内の釻場(ませば)で目方を改め、銀見役により品位が改められ、五分入れ(銀95%)の品位以上のものはそのまま用い、それ以下のものは精錬し直して、最上位の一割入れとし、規定の割合に銅を組み合わせて秤量し取組みが行われ箱に入れ封印し、銀見役から常是手代へ引き継ぐ。
常是吹所(ふきしょ)
吹立は常是吹所で行われた。取り組みの行われた地金を12貫を一吹として留鉢(坩堝)にいれ吹鎔かし常是手代湯入役が鉄柄杓で汲み上げ熱湯を張った丁銀および小玉銀の型に流し込んだ。形の良否により選別され、合格したものは数量および目方が改められた後、常是極印役に引き継ぐ[36]。
常是極印役により極印打ちが行われ、さらに焼鈍しが行われた後、梅酢に漬けられ、表面の銅を溶解して銀色が整えられた。丁銀は200枚ずつ、小玉銀は500匁ずつ包み、座人封で銀座に廻した[37]。
銀座糺吹所(ただしふきしょ)
鋳造された丁銀の銀品位が正しいか否かを検査するため、常是手代立会いの下、鉛を加えて吹き戻され灰吹法により含有銀量が改められた。これを糺吹(ただしふき)と呼ぶ。糺吹は丁銀の銀品位を一定に保つことが目的であるが、銀座役所において銀品位が正しく取組まれているか否かを吟味する目的もあり、常是が銀座を牽制する意味もあった[38][39]。
丁銀100匁当りの含有上銀の許容誤差は慶長銀および正徳銀0.3匁、元禄銀0.8匁、宝字銀1.11匁、永字銀1.33匁、三ツ宝銀1.51匁、四ツ宝銀1.7匁、および文字銀1.5匁であった。寛政12年(1800年)の銀座改革により勘定奉行による統制が強化され「御勘定附切り」となり、それ以降、新文字銀から糺吹は必要なしと判断され廃止された[40]。
仕立場(したてば)
仕上げは丁銀を加熱した梅酢に漬け、取り出した後、磨き水洗いした。仕上げた丁銀および小玉銀は500匁毎にまとめられ、常是が包封した。
脚注
注釈
出典
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p96-98.
- ^ 日本銀行調査局土屋喬雄編 『図録 日本の貨幣』2巻「近世幣制の成立」 東洋経済新報社、1973年
- ^ 田谷(1963), p83-87.
- ^ 田谷(1963), p269-270.
- ^ 小葉田(1958), p174-179.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p287-288.
- ^ a b c 『伏見桃山の文化史』加藤次郎、山本銓吉、1953年、196-197頁。
- ^ 田谷(1963), p124-143.
- ^ 両替年代記(1933), p7-8.
- ^ 田谷(1963), p5-8.
- ^ a b c 『家数間口并裏行改覚帳』(長谷川家旧記)、1672年
- ^ 『京都両替町拝領屋敷届』、1764年
- ^ a b c 『銀座書留』
- ^ 田谷(1963), p8-12.
- ^ a b c d e 田谷(1963), p369-373.
- ^ 田谷(1963), p18-27.
- ^ 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年
- ^ 『御用留便覧』
- ^ 田谷(1963), p65-71.
- ^ 『大黒常安覚書』
- ^ 田谷(1963), p3-4.
- ^ a b 田谷(1963), p38-40.
- ^ a b 瀧澤・西脇(1999), p98-99.
- ^ 田谷(1963), p40-43.
- ^ 草間(1815), p573, 816.
- ^ 草間(1815), p572-578.
- ^ 滝沢武雄 『日本の貨幣の歴史』 吉川弘文館、1996年
- ^ 田谷(1963), p277-281.
- ^ 田谷(1963), p53-61.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p98-99.
- ^ 滝沢(1996), p137-138.
- ^ 田谷(1963), p411-418.
- ^ 田谷(1963), p48-53.
- ^ 田谷(1963), 196-197, 213-222, 277-278.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p109.
- ^ a b 瀧澤・西脇(1999), p108-110.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p110-111.
- ^ 田谷(1963), p115-118.
- ^ 瀧澤・西脇(1999), p111.
- ^ 田谷(1963), p392.
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