竹中正一郎 竹中正一郎の概要

竹中正一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/12 06:01 UTC 版)

竹中 正一郎
選手情報
フルネーム たけなか しょういちろう
ラテン文字 Takenaka Shoichiro
国籍 日本
種目 長距離走マラソン
生年月日 (1912-09-30) 1912年9月30日[1]
出身地 インドボンベイ(現・ムンバイ
没年月日 (1997-04-04) 1997年4月4日(84歳没)[2]
自己ベスト
マラソン 2時間33分42秒
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経歴

和歌山県出身とされる[注釈 1]が、出生地はインドのボンベイ(ムンバイ[3][注釈 2]。1930年(昭和5年)、旧制和歌山中学校(現在の和歌山県立桐蔭高等学校)卒業[5]慶應義塾大学に進む。

東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)には第12回大会(1931年)から第18回大会(1937年)まで6回連続で出場、区間賞3回。第13回大会(1932年)では8区を走り(区間2位)、今井哲夫北本正路らとともに慶應義塾大学の箱根駅伝初優勝に貢献した。

1932年ロサンゼルスオリンピックには、男子5000メートル競走10000メートル競走に出場した[3][1]。5000メートルは12位、10000メートルは11位であった。5000メートルでは周回遅れとなった際に先頭走者にインコースを譲ったという「美談」が語られた(後述)。

慶應義塾大学文学部を卒業[3]

1940年11月2日の第13回明治神宮競技大会マラソン(第27回日本陸上競技選手権大会のマラソンを兼ねる)に2時間33分42秒のタイムで優勝した[6](当時の所属は厚生省[6]

1952年ヘルシンキオリンピックでは日本選手団のマラソンコーチを務めた[3]

東京歯科大学では陸上部の指導にもあたっており、東京歯科大学陸上部は全日本医歯薬獣医大学対校陸上競技選手権大会で9年連続優勝などの戦績を残している[7]

1932年ロサンゼルスオリンピックでの「美談」

1932年ロサンゼルスオリンピックの5000メートルでは、首位争いの選手ら(ラウリ・レーティネンラルフ・ヒル英語版)にトラック内で追い付かれた際にインコース(コースの内側)を譲ったとされ、そのスポーツマンシップは高い称賛を受けた[8][9]。優勝したレーティネンが進路妨害と見なされる行為を行って(ただし失格とはならなかった)ブーイングを浴びたこととも対比的に扱われた[10]。翌日の現地紙は「10万人の観衆の心に残るのは小さな勇者19歳のタケナカである」と記し、わざわざ走路を不利な外側に移動した謙虚さと、最後まで走った敢闘精神をたたえた[11]。日米関係がぎくしゃくした中で開催されたこの大会において、アメリカ人を感銘させる日本選手の「美談」であり、アメリカでの反応が日本でも報道されて広く知られることとなった[11]。体協の役員たちは「国際親善」に寄与した「無冠の大使」として竹中を称えた[12]。第二次世界大戦後にも、走路を譲りながら完走したエピソードは国語教科書(昭和35年三省堂刊小学校4年生用国語教科書「オリンピックの心」)に採用された[13]

もっともこの「美談」が流布し、競技に大敗したにもかかわらず賛辞が浴びせられたことは、竹中にとって不本意なものであった[11][14]。大会後、関係者には「あんなことで褒められるよりは、せめて6着でもいいから入賞したかった」とこぼしたという[15]。インコースを「譲った」とされるのも疲労困憊した中での無意識的なことであり[注釈 3]、後年、竹中は「美談でも何でもない、コースを譲ったことは覚えていない」「ふらふらになってゴールする醜悪な写真を載せられるのは不愉快」とも述べるなど、作り上げられた「美談」を生涯にわたって否定し続けることとなった[11][14]

脚注


注釈

  1. ^ 和歌山県体育協会は「和歌山県のオリンピック選手」として扱っている[4]
  2. ^ Sports Reference和歌山県生まれとする[1]
  3. ^ 大会後間もない時点では、インコースを開けたのは無意識的な行為と説明している。1984年のインタビュー(インタビュアーは中条一雄)では、外側によろめいた際に上位選手がインコースを通過しただけで、逆側によろめいていたら進路妨害として批判にさらされていただろうと述べている[14]

出典

  1. ^ a b c Shoichiro Takenaka Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月16日閲覧。
  2. ^ a b 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、655頁。
  3. ^ a b c d e f 『現代物故者事典 1997~1999』357頁。
  4. ^ 和歌山県のオリンピック選手のあゆみ”. 和歌山県体育協会. 2021年3月19日閲覧。
  5. ^ 戸村達公 (2006年3月). “今月のことば 放課後の"道場"に憶う”. 講道館. 2021年3月19日閲覧。
  6. ^ a b 過去の優勝者 男子マラソン - 日本陸上競技選手権大会
  7. ^ 矢崎秀昭 2008, p. 33.
  8. ^ 野口源三郎 1932, p. 70.
  9. ^ オリンピックと日本”. アジ歴ニューズレター 第20号. 国立公文書館アジア歴史資料センター (2016年7月28日). 2021年3月19日閲覧。
  10. ^ 根本想 2017, p. 99.
  11. ^ a b c d 中条一雄 (2012年7月1日). “オリンピックあれこれ(1)”. 中条一雄のスポーツ炉辺閑話. 2021年3月19日閲覧。
  12. ^ 根本想 2017, p. 92.
  13. ^ 阿部晴弘 2008, p. 29.
  14. ^ a b c 根本想 2017, pp. 100–103.
  15. ^ 根本想 2017, p. 102.


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