白馬高地の戦い
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経緯
1952年、鉄原-金化地区では、アメリカ軍第9軍団が7月中旬に西から韓国軍第9師団、アメリカ軍第7師団、韓国軍第2師団を第一線に配置するとともに、アメリカ軍第40師団を予備として控置し、中共軍第15軍、第38軍と対峙していた[8]。夏の間は小康状態を保っていたが、秋になると中共軍が第9軍団の前哨陣地に対する大々的な攻撃をかけてきたため、国連軍も限定的ながらも積極的な攻勢をとることで熾烈な高地争奪戦が展開された[8]。
第9軍団左翼の第9師団は1951年10月17日から鉄原地域に投入され、395高地から中江里(중강리)までの11キロにわたる鉄原平野を防御していた[9]。第9師団正面には中共軍第38軍の第114師第340団、第324団が配備されており、第113師が左隣接部のアメリカ軍第2師団正面に、第112師が予備として南山谷(남산골)付近に配置されていた[9]。
第9師団の主抵抗線は、左端の395高地を除く大部分が鉄原平野を横切る開豁地であった[9]。一方、中共軍は暁星山をはじめ有利な高地を占領して第9師団の防御地域を瞰制(かんせい)していた[9]。そのため全般的に第9師団の防御は脆弱であり、さらに師団の主抵抗線5キロ前方にある蓬莱湖(봉래호)は作戦地域内の駅谷川(역곡천)を氾濫させるため、師団の作戦に大きな影響を及ぼした[9]。
第9師団は9月22日から左第一線に第30連隊、右第一線に第29連隊を配置し、第28連隊を予備とする一方で、その他に配属された第51連隊を大隊単位で運用して主抵抗線を防御していた[9]。395高地の防御を担当した第30連隊は、395高地に第1大隊、中馬山(중마산)一帯に第2大隊、駅谷川南岸に予備の第3大隊を配置していた[9]。
第30連隊が占領していた395高地は、鉄原と駅谷川渓谷を見下ろす主要な地形であった[10]。高地の東、南、西は駅谷川に事実上囲まれており、高地を隔離して比較的狭い地形に攻撃を集中させることができる点で、中共軍の任務を単純化したかのように見えた[10]。しかし川の北側にある国連軍陣地は395高地と西側の281高地(通称矢じり高地(화살머리 고지)、Arrowhead Hill)だけであり、この高地の喪失は第9軍団が南に撤収することを余儀なくされ、さらに西側の第1軍団の側面を暴露し、ソウルを脅かす可能性を持つ経路を開くことになる[10]。ここを中共軍に占領されれば鉄原平野を瞰制されるだけでなく、国連軍の兵站線である国道3号線をはじめとする多くの補給路が使用できなくなる[11]。また395高地が国連軍の手中にあれば、軍事境界線はその北を通るため中朝軍はそこから2キロ撤退せざる得なくなり暁星山の稜線を陣地線として使えなくなるが、逆に中朝軍が手中に収めれば、軍事境界線は駅谷川河川を通るため、中朝軍の陣地は極めて強固なものになってしまう[12]。したがって第9軍団長ジェンキンス中将は戦術的にも戦略的にも重要な高地を単なる前哨陣地として扱わないようにした[10]。そのためここには堅固な防御陣地が構築されていた[2]。また395高地西側の281高地にも坑道と鉄筋コンクリート製の掩体壕群が構築されていた[2]。この2つの高地は国連軍にとっては進行の助けとなり、中共軍にとっては大きな障害であった[2]。
当時第9師団は敵の企図について、395高地を奪取し、鉄原平野を制圧するとともに大攻勢の基盤を構築し、鉄原を中心とした広範囲の地域を統制することで、中部戦線で戦略的支点を確保し、自軍に大きな影響を及ぼそうとするものと判断し、防御態勢を強化した[13]。
金鐘五少将は、将兵に中共軍の戦術を徹底的に教育させ、夜間射撃と白兵戦訓練を繰り返した[14][注釈 1]。さらに塹壕はすべて有蓋壕にし、負傷兵が退避することができる施設を構築した[14]。また砲兵を適時に動員できれば自軍の被害を最小限にして敵には十分な打撃を与えることができると考え、第9軍団長のジェンキンス中将と相談して砲兵支援が不足しないように措置した[16]。そのため第9師団には榴弾砲大隊3個、重迫撃砲中隊1個、戦車中隊1個の他に、第9軍団から米軍砲兵大隊3個と戦車中隊1個、それ以外に韓国軍砲兵大隊が配属された[2]。
気象は晴天が続き、夜間も月光により比較的観測が良好であるため、国連軍の航空支援に有利であった[13]。
全戦線にわたり中共軍の攻勢の兆候が出始めたので、偵察と警戒を強化していたが、10月3日、395高地東側の284高地で第38軍の第340団第7連文化教員の谷中蛟[17]が投降[2][18]。投降者の供述から以下の事が判明した[19]。
- 攻撃開始:10月4日24時~6日1時の間に別途で選ぶ時刻。
- 主攻部隊:第114師団第340連隊。
- 増援部隊:第112師団の1個連隊。
- 準備期間:6月以降の3か月。
- 特殊訓練:平康西北側の上甲里及び下甲里に395高地の縮小模型を作成し、地形に慣れる予行練習を反復。
- 砲弾準備:支援砲撃に十分な各種砲弾を貯備。
- 特殊装備:各中隊ごとに鉄条網破壊筒及び地雷筒を60個ずつ確保。
- 個人装備:個人に8個の手榴弾と160発の小銃実弾を支給。
- 防寒服支給:395高地を占領したならば、長期間確保するため越冬用防寒服を支給予定。
- 非常手段:395高地を孤立させるために駅谷川を氾濫させる目的で蓬莱湖水門を一時開放。
金鐘五少将は、10月4日までに第28連隊第3大隊を高地近くの支援位置に、主抵抗線から離れていた他の連隊も予備の反撃部隊として使用できるように配置した[18]。これによって第9師団は395高地の防御兵力を2個大隊に増強するとともに、師団予備をもって直ちに反撃できるように措置し、偵察を強化した[13]。駅谷川の氾濫に備えて1週間分の食糧、飲料水、弾薬などを備蓄するよう命じた[20]。戦車と対空砲は高地の側面に谷からの接近を防ぐように配備された[21]。
10月4日夜、予想された中共軍の攻撃は開始されなかったが、金鐘五少将は攻撃が差し迫っていると感じ、隷下の部隊にさらに3日間現在の位置を維持するように命じた[18]。
第5空軍は中共軍の攻撃の勢いを削ぐために、10月3日から6日まで19回にわたって中共軍後方一帯の爆撃を実施した[20]。また中共軍も10月3日から砲撃を強化し、10月5日午後5時から翌6日午後5時までの間、2,000発の砲弾を集中させた[20]。
- ^ 当時副師団長だった金東斌によれば、1952年初めに師団長だった朴炳権と参謀長の李ヒョンジン(이현진)が部隊をよく整備したことが大きいとする。また自身が3月に副師団長に赴任して部隊教育を担当し、射撃や火薬の取り扱いなどを重点的にして、師団の3個連隊が訓練を完了する頃に敵の攻撃が開始されたことも幸運だったと証言している[15]。
- ^ 水位は1メートル未満しか上がらなかったため、影響は最小限であった[26]。
- ^ 迫撃砲の破損については新しい砲12門が春川からヘリコプターで空輸され、8日から戦闘終了まで使用された[31]。
- ^ 395高地の第5中隊に大きな被害をもたらしており、395高地を喪失する結果を招いた[39]。
- ^ 第213砲兵大隊長は戦闘後に引責された[48]。
- ^ 中共軍公刊史は第9師団の損失を合計9,300名とした[2][70]。
- ^ 手紙が書かれた時点では戦闘は終わっていなかったが、ヴァン・フリートは第9師団の能力を信頼し、最終的に395高地を掌握すると確信していたものと推測される[72]。
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