片上伸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/04 00:38 UTC 版)
人物情報 | |
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生誕 |
1884年2月20日 日本愛媛県今治市 |
死没 | 1928年3月5日 (44歳) |
出身校 | 東京専門学校 |
学問 | |
研究分野 | 文学(ロシア文学) |
研究機関 | 早稲田大学 |
経歴
1884年、愛媛県今治市波止浜生まれ。一族は裕福な庄屋であり、伸の父・良(つかさ)は月番所詰めの役人であった[1]。幼いころから神童と呼ばれ、新聞・雑誌の投稿欄の懸賞金を学資に当てていたという。旧制愛媛県立松山中学校(現・愛媛県立松山東高等学校)を卒業後、1900年に東京専門学校(現・早稲田大学)予科に入学する。在学中は英文学を学んだが、一方で当時勃興期であった自然主義文学に傾倒。卒業後は『早稲田文学』の記者をとなり、後に早稲田大学の教員となった。大学では英文学、ロシア文学を講義しながら、雑誌『早稲田文学』に自然主義を擁護する評論を多く発表した。
1915年、早稲田大学からの留学生として文学研究とロシア文学科設立準備のためにロシアに留学。その留学期間中の1917年、ロシア革命に遭遇。その頃から、社会の改革と文学との役割について考えるようになり、1918年の帰国後からは初期プロレタリア文学の評論に転換していった。このころから、天弦の号から、片上伸の名前で評論を発表するようになった。また、ロシア留学時代に山本鼎と出会ったことから彼の提唱する児童自由画教育に共鳴するようになり、帰国後は山本や北原白秋らとともに「芸術自由教育」編集委員を務めて文芸教育を主導するなど、大正自由教育運動の論客としても活動するようになった[2]。
1920年、片上を主任教授として早稲田大学文学部にロシア文学科が創設された。それまで英文テキストに頼っていた日本のロシア文学研究は、これを機にロシア語から教授されるようになった。背が高く、眉目秀麗、いつも身ぎれいで役者のような外見の良さも手伝って、人気の若手評論家としても活躍した。1924年、早稲田大学を辞職し、再びロシアへ留学した。[3]片上には妻子がおり、学内の派閥争いも絡んでいると見る向きもある[4]。ロシアから帰国後の1928年、脳溢血に倒れて45歳で死去。
研究内容・業績
- 早稲田大学文学部にロシア文学科を創設し、後進を育成した。門下から多くのロシア文学研究者が育つことになる。
- 著作は谷崎精二編『片上伸全集』にまとめられている。
人物評
教師として
- 自身が受け持った生徒の多くからは、かなり恐ろしい先生と認識されていた[5]。
- 1920年代に早稲田に学び、片上の授業を受けていた、井伏鱒二や尾崎一雄たちの回想の中では、主人公たちの夢を邪魔するような存在として描かれていることが多い。特に井伏は1921年、片上のセクハラ行為によって大学中退を余儀なくされる被害に遭った。井伏は短編小説『喪章のついてゐる心懐』で片上との思い出に触れたほか、回想録『鶏肋集』で片上と推測される人物を挙げ、「体質的に非常に気の毒な人」と評している。
交遊
- かつての学生からの不人気な評はあるものの、交友関係は広く、同じロシア文学者のみならず、他の国々の海外文学研究で活躍した者や、二文学で活躍した作家や文人とも交流があった。生前片上が指導していた楠山正雄や浜田広介などの作家にも、彼が紹介したロシアの作家からの影響がうかがえ、学問・文学面で片上が後進に与えた影響は大きい。
家族・親族
- 弟:竹内仁(たけのうちまさし)は、片上と14歳違いの弟。竹内家へ養子になった。東京帝国大学哲学科の学生で批評家としても活動をしていた1922年に小石川の婚約者の家でその両親を殺したあと、自殺。享年24歳。1928年に、批評をまとめた『竹内仁遺稿』(イデア書院、非売品)が刊行されている[6]。
- 1 片上伸とは
- 2 片上伸の概要
- 3 著書
- 4 片上伸に関する参考文献
片上伸と同じ種類の言葉
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