毛利吉広
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/23 01:43 UTC 版)
概要
延宝元年1月12日[1](1673年2月28日)に江戸麻布の藩邸で生まれる[2]。
貞享元年(1684年)に一門八家の一つ右田毛利家当主・毛利就信の養嗣子となり、異母兄で長州藩主を継いでいた毛利吉就から偏諱を授与されて
元禄7年(1694年)に吉就が嗣子なくして早世するとその養嗣子として跡を継ぐ[1][2]。8月に兄同様、5代将軍・徳川綱吉より偏諱を授与され、亡き父の1字を取って[要出典]吉広に改名した[2]。
元禄9年(1696年)にはじめて領国に入国する[2]。藩財政が窮乏化する中、三田尻海岸の干拓[2]、橋本川の治水工事、城下町整備や検地など積極的な政策を展開するが、宝永4年(1707年)10月13日[1]に江戸桜田の藩邸で[2]、35歳で死去する[1][2]。改革は中途半端に終わった。
嗣子はなく、また弟の元重も前年に死去し、その子で甥に当たる元直も幼少であったため、長府藩から
偏諱を与えた人物
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- 毛利広政(右田毛利家、吉敷毛利就直の四男、就直の実兄・毛利就信の養子)
- 毛利広包(吉敷毛利家、就直の五男で広政の実弟)
- 毛利広規(阿川毛利家、正室は毛利就包(広政・広包の兄)の娘)
- 宍戸広隆(宍戸氏)
- 椙杜広中(椙杜氏、椙杜元縁の孫)
- 椙杜広品(広中の実弟・養嗣子)
- 福原広頼(宇部領主福原家)
- 福原広泰(毛利広為)(初め大野毛利家の嗣子、のち兄の広頼が亡くなったのに伴い実家を相続)
- 山内広通(山内采女広通、備後山内氏)
脚注
固有名詞の分類
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