宍戸広隆
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宍戸 広隆(ししど ひろたか、貞享3年1月3日(1686年1月26日)[1] - 元文元年11月5日(1736年12月6日))は、長州藩毛利家家臣。宍戸家第19代当主。
もともとは安芸熊谷氏の生まれで、父は熊谷就実、母は小倉要盛の娘。叔父(就実の実弟)である宍戸就延の娘を正室に迎える形でその婿養子となる。また、実家を継いだ実弟・熊谷元貞(帯刀)の次男・宍戸広周を養子とした。通称は彦四郎、河内、美濃。
生涯
貞享3年(1686年)、長州藩士熊谷就実の長男として生まれる。藩主毛利吉広より偏諱の授与を受け広隆と名乗る。
享保7年(1722年)、叔父宍戸就延の死去により、その家督を相続して三丘領主、長州藩一門家老となり、藩主毛利吉元、宗広に仕えた。享保8年(1723年)、藩主吉元の娘皆姫の、薩摩藩主島津継豊への輿入れの際に、御輿役を務める。
元文元年(1736年)11月5日死去。享年51。家督は甥で養子の宍戸広周が相続した。
脚注
- ^ 『近世防長諸家系図綜覧』防長新聞社、1966年、p.63。
参考文献
- 石川卓美著「防長歴史用語辞典」
- 宍戸広隆のページへのリンク