栗林忠道 アメリカ軍関係者の評価

栗林忠道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/23 18:46 UTC 版)

アメリカ軍関係者の評価

栗林と硫黄島で対決したアメリカ海兵隊司令官
ハリー・シュミット海兵少将

戦闘は敗北となったが、僅か22平方キロメートル(東京都北区程度の面積)に過ぎない硫黄島を、海兵隊に加えて、陸上任務に就く陸軍などの将兵を含めると総兵力は111,308人、また海軍などの支援要員を含めた作戦に従事する将兵250,000人と、単純な兵力では5倍から10倍以上[58]、さらに絶対的な制海権制空権を持ち、予備兵力・物量・兵站・装備全てにおいて、圧倒的に優勢であったアメリカ軍を敵に回して、最後まで将兵の士気を低下させずに、アメリカ軍の予想を上回る1か月半も硫黄島を防衛した指揮力は、内外で高く評価されている。硫黄島の戦いで栗林に苦しめられた、アメリカ海軍と海兵隊の軍公式報告や司令官級の高級将官からの評価を列挙する。

栗林忠道中将は、アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった。この五十台の“サムライ”は天皇によって指名され、絶賛され、豊富な戦闘経験と革新的な思考と鋼鉄の意志を持ち合わせていた。これはアメリカ軍に対する栗林の唯一の戦闘となったが、栗林はアメリカでの軍務経験から将来の対戦相手について多くを学んでいた。さらに重要なことに、彼はアメリカ軍の硫黄島への侵攻を撃退しようとする以前の日本軍の試みの結果を、瞬きを一つもしない目で評価することができた。英雄的な誇張を排除し、栗林はタラワからテニアンへの日本軍の失敗の特徴であった「水際防御」戦術と「イチかバチかのバンザイ突撃」を評価することはほとんどなかった。現実主義者の栗林は、日本軍の枯渇した艦隊や空軍から多くの援助が期待できないことを知っていた。自分がとれる最高の戦術は、最近のビアクとペリリューの防御戦術のパターンに沿って、縦深防御で硫黄島の地形を最大に活用すべきと結論づけた。栗林は「水際配置・水際撃滅主義」、「バンザイ突撃」の戦術を避け、代わりに、アメリカ軍に士気喪失させ、作戦を放棄させるため、消耗戦、神経戦、長期持久戦を行った。 — アメリカ海兵隊公式戦史、[59]
栗林は現実主義者であった。栗林は硫黄島の促成滑走路が日本軍の貴重な資産であると認識していた。硫黄島は(マリアナ諸島の)B-29に対する攻撃の拠点となっており、アメリカ軍の戦略の重要拠点として注目されることは確実であった。硫黄島がアメリカの手に落ちればその飛行場は日本に大きな脅威となることも認識していた。栗林には、島全体を爆破するか、死ぬまで戦うかの選択肢しかなかった。栗林は後者を効果的に行うために、かつての島嶼防衛戦で行われた水際撃滅戦術とバンザイ突撃を禁止し、先進的な防衛態勢を構築した。栗林は海軍との間ではいくつかの妥協を行ったが、陸軍においては参謀長を含む18人の上級将校を更迭し、残った将校たちは栗林の方針に従った。栗林は海軍や航空支援を受けられない運命に置かれたのにも関わらず、断固として有能な野戦指揮官であることを証明した。 — アメリカ海兵隊公式戦史、[60]
硫黄島防衛の総指揮官である卓越した栗林忠道陸軍中将は、硫黄島を太平洋においてもっとも難攻不落な8平方マイルの島要塞にすることに着手した。この目的を達成するためには地形の全幅利用を措いて他に求められないことを彼は熟知していた。歴戦剛強をもって鳴る海兵隊の指揮官たちでさえ、偵察写真に現れた栗林の周到な準備を一見して舌を巻いた。 — チェスター・ニミッツ[61]
(栗林による)硫黄島の防御配備は、旧式な水際撃滅戦法と、ペリリューの戦いレイテ島の戦いリンガエン湾の戦いで試みられた新しい縦深防御戦術との両方の利点を共有したものとなった。 — サミュエル・モリソン[62]

特に、硫黄島で陸上戦を指揮し栗林と対決した第56任務部隊司令官ホーランド・スミス海兵中将は自分の著書などで多くの栗林評を残しておりその一部を抜粋する。

栗林の地上配備は私(スミス)が第一次世界大戦中にフランスで見たいかなる配備より遥かに優れていた。また観戦者の話によれば、第二次世界大戦におけるドイツ国防軍の配備をも凌いでいた。 — ホーランド・スミス、[63]
太平洋で対決した日本軍指揮官のなかで栗林は最も勇猛であった。島嶼指揮官のなかには名目だけの者もあり、敵戦死者の中に名も知られずに消え失せる者もいた。栗林の性格は硫黄島に彼が残した地下防備に深く記録されていた。硫黄島は最初の数日間に組織的抵抗が崩壊することなく、最後まで抗戦を継続したため著名となった。 — ホーランド・スミス、[64]

栗林の手強さはこういった軍組織や軍司令官だけではなく、末端の海兵隊員までに知れ渡っており、以下のような発言も海兵隊公式報告書に記されている。

ジャップのなかに栗林のような人が他にいないことを願う — あるアメリカ海兵隊員、[65]

イギリスの歴史作家で第二次世界大戦での多くの著作があるアントニー・ビーヴァーも栗林を評価している。

硫黄島の守備にあたる陸海軍部隊を統括するのは、栗林忠道中将だった。栗林は優れた教養人で、陰影に富んだ性格をした騎兵将校である。この戦いの帰結について幻想をいっさいもたなかったが、麾下の各陣地を持ち堪えさせるため、周到な準備を整えた。 — アントニー・ビーヴァー、[66]

注釈

  1. ^ 栗林は1945年(昭和20年)3月17日付で戦死と認定されたため[2]、3月17日付で陸軍大将に親任され(戦死による)[1]、栗林の後任として立花芳夫中将が3月23日付で第109師団長に親補され[3]、「秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』(第2版)東京大学出版会、2005年」61ページの「第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-栗林忠道」では栗林の出生および死去年月日を「明24・7・7 - 昭20・3・17」と記載している。一方、栗林の出生および死去年月日を「明治24(1891)7・7生 - 昭和20(1945)3・26没」と記載している「半藤 2013b, 位置No. 3720/4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)」は、【凡例】に「本表は秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』記載の「主要陸海軍人の履歴」を底本とし各種文献・史料を参照のうえ、加除、修正して作成している」と記しており、『半藤 2013b』は半藤一利・横山恵一・秦郁彦原剛の4名の共著である。
  2. ^ 栗林は金鵄勲章を受章していない[2]半藤一利は「功一級でもおかしくないのにね」と評している[2]
  3. ^ 栗林忠道の妻である栗林義井は、旧姓も栗林であるが、二人の間に特に血縁関係はない[7]。義井は川中島付近(現・長野市氷鉋[10])の地主の娘[7]
  4. ^ 留守師団とは、内地及び朝鮮を衛戍地とする師団が戦地に動員された際に、動員された師団の衛戍地に、陸軍動員計画令によって設置され、留守・補充業務などを行う師団[14]近衛第2師団スマトラ島方面に動員されていた。師団長親補職であるが[15]、留守師団長は親補職ではない[16]
  5. ^ 1944年(昭和19年)6月に栗林が留守近衛第2師団長から東部軍司令部附に転じた後、同年7月には留守近衛第2師団を母体として近衛第3師団が編成されている。
  6. ^ 昭和20年3月17日付で栗林の戦死が認定されたことにより、父島にいた混成第1旅団長の立花芳夫陸軍少将が、3月23日付で陸軍中将に進級し、栗林の後任として第109師団長に補されている[7]
  7. ^ 小元は栗林の高級副官であったが、アメリカ軍上陸直前にに大本営に出張していたため、硫黄島に帰ることができず戦死を免れた[55]
  8. ^ 新聞発表では、「悲しき」の部分を「口惜し」と改竄の上、発表された。
  9. ^ 長野中学からのもう一人の同期生は今井武夫陸軍少将である。

出典

  1. ^ a b 半藤 2013b, 位置No. 3720-4133, 陸軍大将略歴〔昭和期(昭和十六年から二十年までに親任)
  2. ^ a b c d 半藤 2013a, 位置No. 85/119, 第一章 大将の誕生-ほとんどが金鵄勲章佩用者
  3. ^ a b 秦 2005, pp. 370–382, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧-III 陸軍-9.部隊/師団-A 師団
  4. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年12月24日閲覧。
  5. ^ 小林 2009, p. 110.
  6. ^ 秦 2005, p. 61, 第1部 主要陸海軍人の履歴-陸軍-栗林忠道
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 半藤 2013b, 位置No. 2860-3049, 第四章 戦没した将軍たち-栗林忠道 太平洋戦争屈指の名将
  8. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.355
  9. ^ 秦 2005, pp. 545–611, 第3部 陸海軍主要学校卒業生一覧-I 陸軍-1.陸軍大学校卒業生
  10. ^ a b c 梯 2013, 位置No. 407/423, ドキュメント1 栗林忠道 その死の真相-栗林家に保存された一通の手紙
  11. ^ 生い立ち~現在 | 新藤義孝公式ウェブサイト”. www.shindo.gr.jp. 新藤義孝. 2018年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年8月9日閲覧。
  12. ^ ニューカム 1966, p. 5
  13. ^ 小谷秀二郎 1978, p. 48
  14. ^ 秦 2005, p. 777, 第5部 陸海軍用語の解説-る-留守師団
  15. ^ a b c d 秦 2005, p. 744, 第5部 陸海軍用語の解説-し-親補職
  16. ^ 『留守師団長上奏に関する件』 レファレンスコード C01001578700”. アジア歴史資料センター. 2018年8月20日閲覧。
  17. ^ 小谷秀二郎 1978, p. 50
  18. ^ 児島襄 1970, p. 14
  19. ^ 梯久美子 2015, p. 60
  20. ^ 児島襄 1970, p. 17
  21. ^ 児島襄 1970, p. 31.
  22. ^ 梯久美子 2015, p. 59
  23. ^ 児島襄 1974, 電子版, 位置No.1043
  24. ^ 児島襄 1970, p. 59
  25. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.393
  26. ^ a b "United States Army in World War II The War in the Pacific Campaign In the Marianas Night of 16-17 June--Tank Counterattack"
  27. ^ 下田四郎 2014, p. 59
  28. ^ 佐藤和正 2004, p. 148
  29. ^ 岡村青 2018, p. 129
  30. ^ 佐藤和正 2014, p. 147
  31. ^ 岡村青 2018, p. 130
  32. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.376
  33. ^ 小谷秀二郎 1978, p. 156
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  38. ^ 児島襄 1970, p. 156
  39. ^ 児島襄 1970, p. 161
  40. ^ 山口 2005, p. 744, 第一節 「陸軍大将」誕生の条件
  41. ^ a b 秦 2005, p. 749, 第5部 陸海軍用語の解説-た-大将
  42. ^ {注:3語不明}[要出典]
  43. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.1740
  44. ^ 児島襄 1970, p. 272
  45. ^ a b 戦史叢書・13 1968, p. 411
  46. ^ 小谷秀二郎 1978, p. 198
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  48. ^ Operation Detachment: The Battle for Iwo Jima February - March 1945”. 2021年11月29日閲覧。
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  50. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.444
  51. ^ 伊藤正徳・4 1960, p. 109
  52. ^ Operation Detachment: The Battle for Iwo Jima February - March 1945”. 2021年11月28日閲覧。
  53. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年11月28日閲覧。
  54. ^ SAPIO』2006年10月25日号、小学館。[要ページ番号]
  55. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.128
  56. ^ 梯久美子 2015, 電子版, 位置No.211
  57. ^ "明徳寺にある陸軍中将 栗林忠道之墓". 観光スポット. 信州松代観光協会. 2023年8月26日閲覧
  58. ^ ニューカム 1966, p. 19
  59. ^ Marines in the Seizure of Iwo Jima”. U.S. Marine Corps. 2021年12月17日閲覧。
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  61. ^ ニミッツ 1962, p. 425
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  63. ^ 戦史叢書・13 1968, p. 396
  64. ^ 戦史叢書・13 1968, p. 412
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  68. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.603
  69. ^ 児島襄 1970, p. 29
  70. ^ 梯久美子 2015, p. 巻頭写真
  71. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.442
  72. ^ 山岡荘八7 1987, 電子版, 位置No.460
  73. ^ “新藤前総務相:硫黄島戦参加の元米中将と握手 米議場で”. 毎日新聞. 毎日新聞社. (2015年4月30日). オリジナルの2015年5月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150502220120/http://mainichi.jp/select/news/20150430k0000e010140000c.html 2017年2月26日閲覧。 
  74. ^ 『官報』第2602号附録、昭和10年9月3日。
  75. ^ 『官報』・付録 1941年11月14日 辞令二


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