太田城 (常陸国) 歴史・沿革

太田城 (常陸国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 02:50 UTC 版)

歴史・沿革

この城の起源は明らかではないが、天仁2年(1109年)に藤原通延(藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであるという。

新羅三郎義光の孫・源昌義が、後三年の役1051年から1062年)の功により領有することになった地名をとって「佐竹氏」を称した。二代佐竹隆義は当時の太田城主藤原通盛(通延の孫)を服属させたのち、通盛を小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して「小野崎氏」を名乗らせ、自らが太田城に入った。入城の日、太田城の上空をが舞いながら飛んだので「舞鶴城」と名づけたと伝わる。

以降、佐竹氏代々の居城であったが、戦国最末期の当主佐竹義宣水戸城に本拠を移した。

その後、江戸幕府徳川家康)の一国一城令により廃城となったが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ、水戸藩附家老中山氏が管理することとなった。

歴代城主

構造

本郭は現在の太田小学校一帯。 二の郭は内堀町から若宮八幡宮一帯。 三の郭は栄町の大部分で北側が搦手とよばれている。 これらの郭は明治の初期に国から町の有志に払い下げられ、土塁をくずし堀を埋めて宅地や道路が造られたが、大正末期まで土塁や郭の一部が残っていた。

参考文献

  • 常陸太田市の歴史散歩(1986年)



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