大雪丸 (初代)
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洞爺丸事件
大雪丸難航
洞爺丸台風当日の1954年(昭和29年)9月26日10時00分、大雪丸は5便として、青森第2岸壁を出航、14時40分、函館港外に到着したが、着岸予定の函館第2岸壁では、穴澗岬沖から引き返した1202便 第十一青函丸が着岸作業中で、第1岸壁では、4便として出航準備中の洞爺丸が停泊しており、岸壁に空きがなく、防波堤外で錨泊待機した[49][50][51]。16時02分の第十一青函丸の沖出し後、16時55分、2時間25分遅れで函館第2岸壁に着岸し、旅客と車両を降した[52]。このとき、先船の4便 洞爺丸は“天候険悪出航見合わせ”中で、その後船となる大雪丸の出航は未定となった。このため、防波堤外で岸壁の空きを待っていた後船の1201便 石狩丸(初代)着岸のため、17時25分いったん離岸し[51]、17時40分、次便での着岸に便利な函館桟橋近くの防波堤内に錨泊した[49][51]。この時の風は南5〜6mであった[52]。
しかし防波堤内は避難船で輻輳し、すぐ前方には無動力のイタリア船籍の修繕船アーネスト号(7,341総トン)[53][54]が停泊しており、その後急速に強まった風で、18時45分頃からアーネスト号の錨ごと流される走錨が始まり、大雪丸自身の走錨もあり、防波堤外への脱出を決定した。19時16分抜錨開始したが[55][52][49]、抜錨中さらに圧流され、有川桟橋沖に錨泊中の日高丸に接近してしまい[51]、全速前進で右転したところ、強い南西風に切れ上がって曲がり切れず[56]、船首が錨泊中の第六青函丸の左舷中央部に向いてしまった。急ぎ後進左転したが19時20分、大雪丸右舷錨が第六青函丸の左舷中央部ハンドレールに接触した[57]。しかし、この後進で船首を右に向けることができ、全速前進で第六青函丸の船尾側をかわし、港口に進み、19時31分、55mを超える暴風雨で防波堤灯台は消灯し視界が利かないまま、レーダーに頼って防波堤外へ脱出することができた[55][51]。
19時40分、防波堤外で錨泊中の洞爺丸の南方、西防波堤灯台246度0.9海里地点に左舷錨投錨して錨泊した。しかし、船首がうまく風上を向かず、風浪を右舷から受け、激しい横揺れが続き、車両甲板に打ち込む海水もボイラー室前方まで達し、走錨も激しく、この危機をから脱するため直ちに抜錨を開始した[55]。しかし10分間で一気に1,800mも流され、19時50分には、北防波堤基礎工事ケーソンに370mまで接近してしまったが、抜錨中の錨の効果と風に切り上がる効果で前進力が得られ、19時58分には錨を垂らしたまま前進全速とし、危機を脱した[58][52][59][51]。この頃から機械室では海水が夕立のように降り注ぐようになった[60]。前進し始めて程ない20時07分、主機械が停止してしまい、このままでは西防波堤に衝突するところ、1分ほどで復旧できた[52][51]。抜錨完了後、20時30分には、当時 洞爺丸の南西に錨泊中であった北見丸の方向に船首が向いてしまうこともあったが[51]、その後針路を南西にとり、「南西の風は涌元へ行け」との経験則に従い、南西風の避難に適した涌元を目指した。21時10分には、葛登支岬灯台に並航し、風速40m、この時のプロペラ回転数は毎分150回転、しかし対地速力わずか2ノット弱で、通常150回転では、12ノット程度は出る回転数であったが[61]、猛烈な向かい風でほとんど前進できず、その場に留まる踟蹰航法(ちちゅうこうほう)となっていた。このため、これより前の21時04分、「21時00分現在葛登支岬灯台より40度2.8海里の地点で踟蹰中」と函館桟橋宛て打電していた[51]。
21時40分には、車両甲板船尾両舷の係船索を巻き込むキャプスタンの回転軸と、流体接手調整ハンドルの車両甲板貫通部から操舵機室への浸水があり、操舵不能となって、以後両舷機を種々使用して針路維持に努めた[58][52][51]。さらに22時00分には、機関室排気口鉄フタ間隙からの浸水で、潤滑油ポンプ1台が故障し、残り1台も断線し、主機械停止してしまったが約5分で復旧できた[52][51]。22時35分、風速は30m程度におさまり、風向も西南西に変わり、日付が変わった9月27日 0時10分、涌元北方の木古内湾知内沖に達し投錨した。沈没は免れたが航行不能となっていた[58][52][51]。
洞爺丸沈没の原因
船は強い風浪に遭遇した場合、風浪を側面から受けて横転する危険を回避するため、船首を風浪の来る風上方向に向けるのが常である。このような場合、錨泊すれば、船首は自然と風上を向くため、洞爺丸台風当夜も、多くの青函連絡船が、錨泊して船首を風上に向け、さらに錨ごと流される走錨を防ぐため、両舷の主機械を運転しつつ台風の通過を待った。このような態勢でいれば、風下側の船尾開口部から、車両甲板上に海水が大量に浸入することはない、とそれまでの経験から、当時の関係者は考えていた[62][63]。
しかし、当夜の函館湾は波高6m、波周期9秒、波長は約120mと推定され、当時の青函連絡船の水線長115.5mよりわずかに長く、このような条件下では、前方から来た波に船首が持ち上げられたとき、下がった船尾は波の谷間の向こう側の斜面、つまり、その前に通り過ぎた波の斜面に深く突っ込んでしまい、その勢いで波は車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが、事故後の模型実験で判明した。そして、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に少なくなることも判明した。
洞爺丸のような船内軌道2線の車載客船では、車両格納所の幅が車両甲板幅の約半分と狭く、車両甲板船尾開口部から大量の海水が浸入しても、その滞留量は250トン[64]とも360トン[65]とも言われたが、車両甲板の両舷側には船室があり、滞留した自由水は舷側まで移動できないため、復原力は維持され、転覆することはない、とされた[66] [67]。しかし、洞爺丸など石炭焚き蒸気船では、石炭積込口など、車両甲板から機関室(機械室・ボイラー室)への開口部は多数あり、これらの閉鎖は不完全で、滞留した海水が機関室へ流入し、主機械停止に至って操船不能となり、走錨もあって、船首を風上に向け続けることができなくなったことが沈没の要因とされた[68][69]。
洞爺丸と同型の大雪丸では、洞爺丸台風の当夜、積載車両を全て降ろしており、その分喫水が浅く車両甲板位置も高くなっていて、海水の浸入が相対的に少なかった。また車両がないため、車両甲板の開口部閉鎖作業に支障をきたすものがなかった、などの幸運に恵まれた[70]。それでもボイラー室や機械室、操舵機室への浸水は少なからずあり、潤滑油ポンプや主機械も一時停止したほか、操舵機故障による操舵不能で、両舷機の推力調節でかろうじて針路保持ができ、まさに九死に一生の生還であった。
洞爺丸事件後の安全対策
洞爺丸事件の重大さを考慮し、運輸省は1954年(昭和29年)10月に学識経験者による“造船技術審議会・船舶安全部会・連絡船臨時分科会”を、国鉄総裁は同年11月にやはり学識経験者による“青函連絡船設計委員会”を設置した[71]。これらの審議会では、青函連絡船の沈没原因と、その対策等が審議検討され、答申書が出された。それらに従って、沈没を免れた連絡船にも種々の改良工事が施された。
1955年(昭和30年)12月には下部遊歩甲板の角窓を水密丸窓として完全な予備浮力とし、照明を蛍光灯とした[72]。
救命艇を吊り下げるボートダビットは、端艇甲板から救命艇を海面に降ろすとき、まず救命艇を手動で舷外へ振り出す操作が必要で、これでは人手と時間がかかり、非常時の間に合わないため、ブレーキを外すだけで、救命艇が自重で舷外へ振り出される重力型ボートダビットに交換され[73]、救命艇も木製から軽合金製のものに交換された[74]。
非常時に、車両甲板下第二甲板の3等船室から、上部遊歩甲板への脱出路となる階段は、従来は最も面積をとらないよう、各階とも同一場所に同一方向に設置されていたため、各階ごとに後ろへ回り込まなければ上がれなかったものを、階段配置が直線になるよう改造された[75][72]。
車両甲板上の石炭積込口を含む開口部の敷居の高さを61cm以上とし、それらを水密の鋼製のふたや扉で閉鎖できるようにし、車両甲板上に大量の海水が浸入しても、機械室やボイラー室へ流れ込まないようにし[76][77][78]、これらの部屋の換気口も閉鎖し、電動換気とした。また主発電機(500kVA 2台)故障時に、推進補機、主要航海通信機器、非常灯電源を確保するため、蒸気タービン駆動の200kVA補助発電機1台を追加設置した。これは通常、出入港時に無負荷運転して非常事態に備えたが、主発電機との並列運転はできなかった。また、従来は機械室床下にあった発電機を床上に上げて、機械室内に海水が多少溜まっても浸からないようにした[74][79]。
洞爺丸型では船内の交流電化が進められ、電動油圧式操舵機を動かす油圧ポンプの動力や、車両甲板下の水密隔壁間を船艙レベルで交通する、水密辷戸の動力にも交流電動機が用いられていた。このため、交流電源故障時にも、これらの使用が継続できるよう、蓄電池容量を増大のうえ、操舵機には直流電動機を追加設置し、手動クラッチとベルトを介して、この直流電動機からも油圧ポンプが駆動できるよう改造した[80]。水密辷戸については、1955年(昭和30年)5月11日に発生した宇高連絡船の紫雲丸事件後の同船の対応にならい、3ヵ所の交流電動機直接駆動方式辷戸のうち、1ヵ所が直流電動機直接駆動方式に改造された[81][74]。
1960年(昭和35年)3月には、1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)と同構造の船尾水密扉が設置された[67][82]。この工事では、船尾扉設置位置をできるだけ船尾側へ寄せるため、甲板室後部端から船尾に至る船内軌道の“屋外”部分を鋼製“トンネル”で覆い、その後端に船尾扉が設置された。このため、車両甲板後端(エプロン甲板との段差)から船尾扉下端まで約2mと、十和田丸(初代)より約4mも船尾側に船尾扉を設置できたため、ワム換算積載車両数19両が維持できた。これに伴い、端艇甲板の船尾側を“トンネル”の上へ張り出し、“トンネル”上に組んだ櫓でこの部分を支え、後部操縦室(ポンプ操縦室)をその上に移した。
この工事では、さらにボイラーが石炭焚きからC重油専燃に改造され、これにより石炭積込口廃止による車両甲板面の一層の水密性向上と、無煙化による旅客サービス向上が図られた。重油焚きは石炭焚きに比べ、1缶当たりの蒸発量が増大し、5缶で石炭焚き6缶と同等性能が確保されるため、右舷最後部のボイラー1缶を撤去し、そのあとに燃料常用槽と自動燃焼制御装置が設置された[83][84]。このとき外舷色は黒から十和田丸(初代)に似た“とくさ色”(10GY5/4)に変更された[85]。船尾水密扉設置により車両格納所容積も加算されて5,855.01総トンとなった[86]。
1961年(昭和36年)6月には、十和田丸(初代)、羊蹄丸、摩周丸とともに、第2レーダーが装備され、当時の車載客船全船がレーダー2台装備となった[87][88]。
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