大日寺 (徳島市) 歴史

大日寺 (徳島市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 15:49 UTC 版)

歴史

寺伝によれば、815年弘仁6年)に空海がこの付近にある「大師が森」で護摩修行をしていると大日如来が現れてこの地が霊地であるから一寺を建立せよと告げた。そこでその大日如来の姿を刻み、堂宇を建立して本尊として安置し「大日寺」と称したという。

元は國中寺の場所にあり、船盡社(船盡神社船盡比賣神社)の別当寺であった[2][3]

その後、伝承では平安時代末期に、阿波一宮が神山町の上一宮大粟神社にあるのでは不便ということで当地に分詞され阿波一宮神社が造られると当寺はその別当寺となった。一宮神社の別当だった神宮寺が廃絶したため[注釈 1]、現在の所に移り一宮神社の別当寺になったとされる[2][3]

南北朝時代に、一宮神社の東の144.3mの山の頂近くに一宮城が造られ、その城主であった一宮氏が当神社を深く崇敬し大宮司を兼ねる関係であったため、その後の天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって一帯がすべて焼失し一宮氏は没落したが、江戸時代初期、徳島藩3代藩主になった蜂須賀光隆も当神社を崇敬し、当神社と当寺を再建した。

また、いつの頃か、当神社が札所になると当寺は納経所として、「本尊大日如来 一宮大明神 大栗山大日寺」と記帳するようになり、一宮寺とも呼ばれるようになっていた。

明治初期の神仏分離によって、当神社の本地仏であった行基[注釈 2]といわれる十一面観音を当寺の本堂に本尊として移され、それまでの本尊大日如来は向かって右の厨子に秘仏の脇仏とされ、当寺は神社の別当ではなくなった。

2008年平成20年)には韓国の伝統舞踊家である金昴先が住職に就任し、四国八十八カ所で唯一の外国籍の住職となった[4]


注釈

  1. ^ 一宮城址への登城路の途中に「神宮寺跡」と刻まれた石碑がある
  2. ^ 時代的に奈良時代作ではありえないし、玉眼で作風から江戸時代初期の作、古くとも室町時代作であるが各解説本にもそのように書かれているため、ここでは同様に記述する。

出典

  1. ^ 華藏院(華蔵院, 蕐藏院)と同音。「華蔵」は仏教用語
  2. ^ a b 中西惟浩、岡影明 編『四国霊蹟写真大観 : 弘法大師御入定一千百年記念』四国霊蹟写真大観刊行会、1934年、60頁。全国書誌番号:46091960 
  3. ^ a b 四国霊場大観刊行会 編『四国霊場大観』弘法教会本部、1936年、68頁。全国書誌番号:46055079 
  4. ^ 住職 金昴先”. 大日寺. 2023年12月17日閲覧。


「大日寺 (徳島市)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「大日寺 (徳島市)」の関連用語

大日寺 (徳島市)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



大日寺 (徳島市)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの大日寺 (徳島市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS