多功ヶ原の戦い 多功ヶ原の戦いの概要

多功ヶ原の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/08 00:37 UTC 版)

多功ヶ原の戦い
戦争戦国時代 (日本)
年月日永禄元年5月29日1558年6月15日
場所下野国多功ヶ原(現在の栃木県河内郡上三川町
結果宇都宮軍の勝利、佐野豊綱の討死
交戦勢力
宇都宮 長尾佐野連合軍
指導者・指揮官
多功長朝 長尾景虎
佐野豊綱 
戦力
2,000騎
損害

合戦以前の情勢

越後国長尾景虎は関東出兵に乗り出す前に会津蘆名盛氏と共謀し、下野国宇都宮氏を攻めるよう示し合わせた。宇都宮氏は弘治3年(1557年)に重臣芳賀高定の尽力により、北条氏康佐竹義昭らの協力を得て壬生綱雄に奪われていた宇都宮城を奪還したばかりであり、当主の宇都宮広綱も若く、不安定な時期であった。景虎は下野国の小大名佐野氏に宇都宮領に侵攻するよう出撃を命じ、下野国へ侵攻した。

合戦の経過

景虎ら長尾・佐野連合軍は宇都宮領へ侵攻する前に小山氏祇園城へ侵攻し、当主小山高朝を一戦も交えずに降伏させた。その後は壬生氏壬生綱雄が拠る壬生城を攻め落とし、宇都宮領の多功城へと進軍した。宇都宮勢は多功城主で宇都宮家中一の侍大将と評された多功長朝率いる多功勢と宇都宮家からの援軍の合計約2,000騎が迎え撃った。両軍は多功城下の多功ヶ原で激突した。長尾・佐野勢は佐野氏当主で先陣の佐野小太郎(佐野豊綱)を筆頭に多くの兵が討ち取られたため、景虎は兵を引き上げた。宇都宮勢の奮闘によりなんとか長尾・佐野勢を撃退できたが、多くの将が犠牲となった。6月上旬には多功長朝ら多功勢は敗走する長尾勢を追撃し、上野国白井まで攻め込み太田資正の仲介によって和睦した[1]

参戦武将

※  このマークが付いている人物はこの合戦で戦死した人物。

宇都宮軍

多功軍

  • 野沢保辰 
  • 高木道重 
  • 木田淡路守
  • 伊沢遠江守
  • 橋本若狭守
  • 青柳丹後守
  • 坂治部
  • 小菅隼人

宇都宮家からの援軍

長尾・佐野連合軍

先陣

本隊

合戦を巡る議論

郷土史研究家の恩田浩孝は、6月上旬に行われた多功勢による追撃は後世の脚色である可能性が高いと主張している。その他にも討ち取られた佐野小太郎は佐野豊綱ではなく、豊綱の嫡男である可能性も指摘している。


  1. ^ 『下野国誌』


「多功ヶ原の戦い」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「多功ヶ原の戦い」の関連用語

多功ヶ原の戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



多功ヶ原の戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの多功ヶ原の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS