国民党 (宋教仁) 国民党 (宋教仁)の概要

国民党 (宋教仁)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/20 08:58 UTC 版)

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国民党
各種表記
繁体字 國民黨
簡体字 国民党
拼音 Guómíndăng
注音符号 ㄍㄨㄛˊ ㄇ|ㄣˊ ㄉㄤˇ
発音: グオミンダン
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党の歴史

1912年4月に、臨時大総統の地位が、孫文から袁世凱に正式に委譲されたのち、臨時約法下で定められている国会開設に備えて、100以上もの各種政党が乱立した。

その中で、中国同盟会の構成員を主体としながら、国会における多数派となるべく、宋教仁らの画策により、統一共和党蔡鍔ら)、国民共進会、国民公党、共和実進会、全国聯合進行会を糾合して、1912年8月に「国民党」が結成された。理事9名を置き、理事長は孫文、理事長代理は宋教仁で、宋が実権を握った。なお、残りの7名の理事は、黄興、王寵恵(以上2名、中国同盟会より)、王人文(国民公党より)、王芝祥呉景濂張鳳翽(以上3名、統一共和党より)、貢桑諾爾布粛親王善耆の義弟)という顔ぶれであり、その「雑居」状態、すなわち、立憲派などの参加があることからもわかるとおり、中国同盟会時代の革新性は失われており、宋教仁の強力かつ強引なリーダーシップにより妥協が行われていたことが推測される。この点から、国民党については、主義主張に統一性がなく、単なる集票機関にすぎなかった、という評価もある。

国民党は積極的な選挙活動を行い、1912年12月から1913年1月にかけての選挙では、大勝し、国会の両院である、衆議院、参議院のいずれにおいても、第一党となる。なお、この時点での他の政党としては、章炳麟張謇湯寿潜らの統一党黎元洪民社から)、孫武譚延らの共和党(民社、国民協進会、民国公会らが統合。一時、統一党も統合されていた)、梁啓超らの民主党などが存在した。

この結果、議会に袁世凱に対する強い抑止力が期待された(宋教仁の考えである「議院内閣制」に強く反対していた孫文ですら、この選挙結果を受けて宋の考えに傾いた、ともいわれる)が、深刻な危機感を覚えた袁世凱は、先手を打ち、刺客を放って宋教仁を暗殺した(1913年3月22日。なお、宋教仁が狙撃されたのは、3月20日)。一方で袁世凱は、共和党、民主党、統一党を合併することにより進歩党を結成し(メンバーは、黎元洪、梁啓超熊希齢、張謇、湯化竜ら)、自己の与党として、国民党に対抗させた。

このような袁世凱の独裁化に対抗すべく、国民党の急進派も参加して第二革命(1913年7月-9月)が起こったが失敗し、参加者の多くは日本などへ亡命するか、中国国内の南方へ逃亡した。この後も、北京に残った国民党の穏健派は活躍を続け、袁の大総統選挙に抵抗したがかなわず、さらに大総統の権限を抑制するような憲法草案(いわゆる「天壇憲法」)の策定までも行ったが、第二革命に関係した等の理由により、1913年11月4日に袁世凱の解散命令が出され、国民党の議員の資格が剥奪されるとともに、国民党は解散した。この間、日本などに亡命せずに中国に残った国民党の議員のうちには、袁世凱により指名手配されたり、処刑された者もいるという。なお、袁世凱による国会解散は、翌年1914年の1月10日である。




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