名古屋電力
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八百津発電所工事
水利権獲得のほかにも、名古屋電力では名古屋電灯と競合する東海電気(旧・三河電力、1901年設立)の合併を目指した[14]。名古屋電灯と競争するにはあらかじめ東海電気を合併しておくのが有利との判断からで、実際に合併仮契約締結に漕ぎつけたが、東海電気株主の多くは名古屋電灯との合併を望んでおり、1906年11月25日に開催された東海電気株主総会にて名古屋電力との合併仮契約は否決された[14]。その後東海電気は改めて名古屋電灯と合併契約を結び、翌1907年6月同社へ吸収された[14]。
以上のように会社合併や水利権獲得には動いていた名古屋電力であるが、肝心の八百津発電所建設は進んでいなかった。会社設立翌年に日露戦争後の恐慌が発生し、第1回の株式払込に続く資金調達が不可能になったためである[4]。恐慌は小栗銀行の破綻により銀行を代表する相良常雄が常務取締役を辞任する[注釈 4]という影響もあった[4]。会社設立から1年余りが経った1908年(明治41年)1月7日、ようやく八百津発電所の着工に漕ぎつける[4]。工事にあたり技術顧問に京都帝国大学工科大学教授大藤高彦を招聘し、設計・施工など全般にわたって監督を依頼した[4]。
工事にあたり、名古屋電力は工事用発電所として木曽川支流旅足川(たびそくがわ)に出力75キロワットの「旅足川発電所」を整備した[15]。完成は1907年11月から翌年4月にかけてである[15]。同発電所の電力は主として八百津発電所工事にて用いられる削岩機の電源に充てられた[15]。
こうして着工された八百津発電所であったが、工事は難航した[4]。取水口工事では増水で工事が振り出しに戻る、水路開削工事では土砂崩れが多発、水路隧道工事では地質が硬く削岩機をもってしても簡単に掘削できずその上湧水が多い、という状況であった[4]。加えて資材輸送道路が貧弱で、土砂崩れや橋梁の破損が度々ありこれも工期が伸びる一因となった[4]。難工事の結果、1910年10月の段階でも完成度は8割であった[4]。
注釈
- ^ 社名の英訳例:The Nagoya Electric Powers Co., Ltd.(山川朝三・大崎二郎 編『英和対照全国銀行会社決算報告集』、明治堂、1909年)。
- ^ 岐阜県出身の実業家で当時甲武鉄道取締役。1910年に愛知電気鉄道(名古屋鉄道の前身)初代社長となる[5]。
- ^ 愛知郡千種町・御器所村・中村・愛知町・八幡村および西春日井郡枇杷島町・西枇杷島町・金城村・清水町・杉村・六郷村[8]。西枇杷島町は現・清須市、他は現・名古屋市。
- ^ 相良は1907年6月辞任。その他の役員の動きには、桂二郎の監査役就任(1907年6月就任)、吉田高朗の取締役就任(1908年6月就任)がある[4]。
- ^ 当時の払込資本金は名古屋電灯の265万円に対し名古屋電力425万円[15]。
出典
- ^ a b c 「商業登記」『官報』第8217号附録、1910年11月10日
- ^ 「商業登記 株式会社本店設立」『官報』第7014号、19106年11月14日
- ^ 明治堂『英和対照全国銀行会社決算報告集』127頁、大阪興信所『会社銀行資産負債録』287-288頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『名古屋電燈株式會社史』177-183頁
- ^ 『名古屋鉄道社史』139-143頁
- ^ 『人事興信録』第3版か135頁。NDLJP:779812/611
- ^ a b 『名古屋電燈株式會社史』183-189頁
- ^ a b c 『電気事業要覧』明治40年9-10頁。NDLJP:805420/25
- ^ a b 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」70-80頁
- ^ 浅野伸一「名古屋電灯創設事情」86-94頁
- ^ a b c 『名古屋電燈株式會社史』109-114頁
- ^ a b 『名古屋電燈株式會社史』255頁
- ^ a b c d e f 『名古屋電燈株式會社史』128-135頁
- ^ a b c 『名古屋電燈株式會社史』93-99頁
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『名古屋電燈株式會社史』166-177頁
- ^ 『名古屋電燈株式會社史』161-166頁
- ^ 『大同電力株式会社沿革史』73-76・79-82頁
- 1 名古屋電力とは
- 2 名古屋電力の概要
- 3 八百津発電所工事
- 4 名古屋電灯との合併
- 5 脚注
- 名古屋電力のページへのリンク