伊藤芳明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 23:43 UTC 版)
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県浜名郡北浜村貴布祢(現:浜松市浜名区貴布祢) |
生年月日 | 1933年12月30日(90歳) |
身長 体重 |
175 cm 71 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1959年4月11日 |
最終出場 | 1969年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
中学時代に野球を始めて投手となり、興誠商業高校では2年生からエースとして活躍[1]。
1952年に中央大学へ進学すると、1年の春季から東都大学リーグで登板。1953年春季のリーグ優勝に貢献し、同年の大学選手権では決勝で立大に敗れ準優勝。1954年秋季リーグの対東農大戦でリーグ史上4人目のノーヒットノーランを達成[1]。リーグ通算57試合登板、21勝13敗。大学同期に鈴木隆、穴吹義雄がいる。
卒業後は日本生命に入社。1957年の都市対抗に出場。倉敷レイヨンとの2回戦(初戦)で先発するが、麻生実男の2点本塁打で逆転を許し、チームは延長10回の末に敗退した。1958年も2年連続で都市対抗に出場[1]。1回戦で、後にプロで同僚となる日本通運の堀本律雄と投げ合うが惜敗。
1959年に読売ジャイアンツへ入団すると、同じ新人の王貞治と同部屋になる[2]。オープン戦から好調で[3]、前年度29勝を挙げて最優秀選手となった藤田元司を差し置いて、新人ながら開幕投手を務めるなど、36試合に投げ7勝9敗防御率2.98を記録する[1]。
1960年初めての二桁となる10勝(9敗)で堀本律雄に次ぎ、1961年は13勝(6敗)で中村稔に次ぐチーム2位の勝ち星を挙げた。特に、1961年は勝率.684で最高勝率のタイトルを獲得するとともに、防御率2.11もリーグ3位と好成績をあげ、川上哲治監督の初優勝に貢献している。1962年は不本意な救援投手への転向によりわずか4勝に終わる[3]。
1963年には再び先発投手に復帰して10完封を含む19勝8敗防御率1.90(リーグ2位)とチームの勝ち頭となり、2年ぶりのリーグ優勝に貢献、沢村賞のタイトルにも輝いた[1]。1964年は左足の肉離れから投球フォームを崩して11勝と勝ち星を減らす[3]。
1965年は肩の故障により2勝に終わると[4]、同年オフに池沢義行・久保田治・島田雄二との1対3のトレードで東映フライヤーズへ移籍。東映ではしばしば先発投手も務めたが、4シーズンでわずか5勝と不本意な成績に終わる。1969年を最後に引退した。新人の年を含め開幕投手を3回、オールスターゲームにも3度出場している[1]。
1970年からスカウトになり[5]1979年まで務めた。1981年から2000年まで再びスカウト。1980年のみ二軍投手コーチを務めた。
選手としての特徴
威力のある重い球質の速球とドロップを得意とした[4]。ピッチングは力強かったが、投球フォームはコックンコックンしてリズム感に乏しかったという[2]。
固有名詞の分類
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