伊予鉄道ハ500形客車 主要機器

伊予鉄道ハ500形客車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/15 20:21 UTC 版)

主要機器

ブレーキは各車のデッキ部に設置された手用ブレーキに加えて、常用ブレーキとしてブレーキ管引き通しによる自動空気ブレーキが搭載されている。連結器は開業以来のシングルバッファーを備えるねじ式連結器である。

室内灯の電源は蓄電池によっており、これはハフ550形とハニフ570形に搭載されている[注 6]。また、客扱いを行う車掌から機関車の運転士に発車の合図を送るためのブザー回線が用意されており、そのためのジャンパー線が各車間に渡されていた。

台車

2軸客車の輪軸・軸箱・ペデスタル部を流用し、それらを形鋼材を組んだ台車枠に組み込む形で製作された、自社製の軸ばね式台車を装着する。この台車は外観・機構共に国鉄TR23形台車の縮小版と呼べるものであり、特に部品の分割構成などに国鉄客車の標準型であった同形式を参考としたことを窺わせる設計となっている。

軸受は当初、種車のままの平軸受であったが、これは後にころ軸受に改造された[注 7][2]

運用

当初は在来の2軸客車群と混用されたが、定数が揃った後は原則的に松山市寄りから順にハフ550形・ハ500形・ハニフ570形の3形式各1両で3両1編成を構成して運用された。これによる定員は205名で、一般的な地方私鉄であれば気動車2両[注 8]でまかなえる輸送量である。

通常時はこの1編成をディーゼル機関車1両で、ラッシュ時には2編成を組み合わせた6両編成をディーゼル機関車2両で牽引して横河原・森松の両線で使用された[注 9]。なお、このように各車の機能分担を明確にし、なおかつ設備の規格化と輸送単位の均一化を図った客車の固定編成を、それも多数揃えて集中運用したケースは、日本の地方私鉄では戦前戦後を通じて伊予鉄道のこの事例が唯一である。なお、運用期間中に腰板や妻板に鉄板を貼り付け、いわゆるニセスチール車とする工事が順次実施されたが、廃車まで未施工のままであった車両も少なからず存在した。

その後森松線・横河原線とも乗客数も減少したため、森松線は自社のバス路線に代替される形で1965年に廃止された。しかし、残る横河原線については一時は部分廃止も検討されたものの、沿線の重信町(現在の東温市)が強く反対し、また1960年代後半に愛媛県営牛渕団地をはじめ沿線の大規模な宅地開発計画が立てられて将来的に大幅な乗客増の見込みがあったため、同線全線の存続と近代化が決定された。

こうして横河原線は線路規格が高浜・郡中両線と同等に改良され、1965年に松山市‐平井間、1967年に平井‐横河原間がそれぞれ直流750Vで電化された。こうした事情から、1965年の森松線廃止と横河原線の部分電化の際に両線で用いられていた機関車・客車に余剰車が発生、異端車であったDB-1や、当時残存していた2軸客車全車と共にハ501 - 503・505が廃車となった。さらに1967年10月の横河原線全線電化完成によって残存車も不要となったため、本形式を含むボギー客車3形式はDB-2 - 8と共に全車除籍されている。

廃車後

横河原線の全線電化に伴う除籍処分後、ディーゼル機関車は1両が他社へ売却されて転用されたが、本形式を含む客車3形式17両はその車両限界の特殊性や運輸省がその淘汰を各社に指導していた木造車であったことなどから他社への譲渡は行われず、大半が解体処分された。

その一方で、一部は記念物として保存対象とされた。そこでDB-2をDB-1と改番の上で、前年の森松線廃止・横河原線部分電化の段階で既に除籍されていたにもかかわらず留置されていたハ501・502の2両とハフ555、それにやはり除籍後も長期留置となっていた2軸車のニ12を組み合わせた1編成が選出され、伊予鉄道直営の梅津寺パークに保存・展示された。もっとも、これらも後に老朽化により解体処分されたため、全車とも現存しない。ただし、廃車解体時に発生した一部の台車が、現在も古町工場で検査・改造工事などの際の仮台車として使用されている。


注釈

  1. ^ 1931年に全線の762mm軌間から1,067mm軌間への改軌および小さな軽便鉄道規格から一般鉄道規格への車両・建築限界の拡大と軌道強化、それに直流600V電化を実施して、前時代的な軽便鉄道から一足飛びに近代的な高速電気鉄道への転換を果たした。
  2. ^ 2軸単端式気動車であるカハ1とカハ3を組み合わせてクハ9とした。このクハ9の場合、車体をつなぎ合わせただけではなく、ボギー台車を種車となったカハ1・3の2両の走行装置を解体して得られた輪軸・軸受・ペデスタル部などの部品を巧妙に流用して製作しており、その点でも本形式の先行事例となる。
  3. ^ この値は現存する客車で言えば大井川鐵道井川線の客車を一回り大きくしたような寸法となる。井川線も軌間1,067mmながら軽便鉄道規格に由来する車両限界を備えているが、伊予鉄道は762mm軌間時代から通常の軽便鉄道よりも大型の車両限界を採用していたため、井川線よりも大型の車両が運行できた。
  4. ^ 前述の大井川鐵道井川線の客車は全長で1m短く車体の最大幅も0.4m程度狭く、台車も簡素な貨車用のアーチバー式であるにもかかわらず、鋼製車体であることから自重が本形式と同等かこれを上回る水準となっている。
  5. ^ このため「列車運転中は危険ですからデッキに立たないで室内に御入り下さい」との札がデッキに貼られていたという。
  6. ^ このため営業運転時には、編成中に最低でも1両、ハフ550形とハニフ570形のいずれかが組み込まれる必要があった。
  7. ^ 現役最終期にあたる1966年撮影の写真でIKF(光洋精工)のロゴ入りころ軸受の装着が確認できる。
  8. ^ 例えば、本形式の誕生に先立つ1950年頃から地方私鉄への払い下げが本格化していた国鉄キハ04形気動車1両の定員は109名で、荷物輸送を考慮しても2両で十分であったことになる。ただし、その多くは1両ずつ運転士の乗務が必要な機械式変速機搭載であり各車にエンジンを搭載していたこと、またその導入には地上設備の大幅改築による車両限界拡大など巨額の設備投資を要したことを考慮すると、主要駅に折り返しのための機回り線設備を維持する必要はあったものの、小型ディーゼル機関車+既存客車改造による客車固定編成を導入し、導入に伴う設備投資とランニングコストを最小限に抑えた伊予鉄道の判断は、横河原・森松線の将来性について判断留保された当時の状況において、きわめて合理的なものであった。
  9. ^ もっとも乗客数減のため、森松線では後年、ハフ550・ハ500形各1両ずつの2両編成で運用されていた。

出典

  1. ^ 「レイル No.30」p.14
  2. ^ 「レイル No.30」p.33


「伊予鉄道ハ500形客車」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「伊予鉄道ハ500形客車」の関連用語

伊予鉄道ハ500形客車のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



伊予鉄道ハ500形客車のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの伊予鉄道ハ500形客車 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS