主君押込 江戸時代

主君押込

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/28 22:53 UTC 版)

江戸時代

主君に対する忠誠を絶対とする封建制度が徐々に確立した江戸時代においては、少なくとも徳川将軍家では見られなくなったものの、非常の措置として行跡の悪い藩主を強制的に監禁する行為は慣行として残った。これはお家の存続を大事とするゆえに行われた行為でもある。もし暴政により被害が深刻化した場合、あるいは藩主の不行跡が幕府に発覚した場合はお家騒動扱いになり、領地を治める能力が無いとして転封減封、最悪の場合は改易という処分を受けかねないためである。

手順はおおむね決まっていた。藩主の行跡が悪い場合、家老らによって行いを改めるよう、諫言が行われる。このような諫言は、場合によっては藩主の怒りを買い、手討ちにされかねない危険な行為であったが、家臣としての義務であった。諫言が何度か行われ、それでも藩主の行いが改まらない場合、家老ら重臣が集まって協議が行われる。そこで押込もやむを得ずとの結論に至った場合、実行される。

あらかじめ目付クラス以上のある程度の身分ある者で、腕の立つ者、腕力強健な者を側に控えさせておき、家老一同が藩主の前に並び「お身持ち良ろしからず、暫くお慎みあるべし」と藩主に告げ、家臣が藩主の刀を取り上げ、座敷牢のような所へ強制的に監禁してしまう。藩主は数ヶ月にわたり監禁され、その間に家老ら重臣と面談を繰り返す。家老ら重臣により、藩主が十分に改心して今後の行いも改まるであろうと判断された場合、藩主は「誓約書」を書いて元の地位に復帰する。「誓約書」には、行いを改めること、善政を施すこと、押込を行った家臣らに報復を行わないこと等が明記される。

監禁の後も藩主に改悛の情が見えず、あるいは偽りの様子としか受け取られない場合、再び悪行や暴政を行う可能性が高いと判断された場合は、藩主は強制的に隠居させられ、藩主隠居の旨を幕府に届け出て、嫡子や兄弟などの妥当な人物が藩主となる。隠居先で暗殺されることもある。

1660年(万治3年)の伊達綱宗の押込は、幕府の承認と監督のもとで行われた。これは公儀公認の主君押込の嚆矢となる。一方で、幕府の内諾を得ない押込が発覚した際は処分されることもあった。

また、必ずしも押込派に理があるケースだけではなく、単なる権力争いであった場合もある。あるいは水野忠辰大関増業など、改革をなそうとする藩主が、既得権を維持せんとする重臣から「悪政」を咎められ、押込められる例も少なくなかった。一般に名君と評価される上杉鷹山も、一時は改革に反対する老臣から押込を受ける寸前まで追い込まれた(七家騒動)。




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