ヴィクトル・アバクーモフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/03 00:40 UTC 版)
ヴィクトル・アバクーモフ Виктор Абакумов | |
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生年月日 | 1908年4月11日 |
出生地 | ロシア帝国 モスクワ |
没年月日 | 1954年12月19日(46歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
出身校 | 高等小学校 |
所属政党 | ソビエト連邦共産党 |
称号 |
赤旗勲章 1等及び2等スヴォーロフ勲章 1等クトゥーゾフ勲章 赤星勲章 モスクワ防衛記章 スターリングラード防衛記章 カフカース防衛記章 |
配偶者 | アントニーナ・スミルノワ |
子女 | イーゴル・スミルノフ |
在任期間 | 1946年5月7日 - 1951年7月14日 |
閣僚会議議長 | ヨシフ・スターリン |
出自
1908年4月11日にロシア帝国のモスクワにて、釜焚き人の息子として誕生する。1921年から1923年に特別任務部隊の第2モスクワ旅団で衛生兵として勤務。1924年から一般労働者。1925年~1927年にモスクワ漁業協同組合の梱包工、1927年~1928年にソ連最高国民経済会議軍事産業警備第1支隊の小銃手、1928年~1930年に中央組合の倉庫の梱包工。1930年に全連邦共産党(ボリシェヴィキ党)に入党。1930年1月~9月にロシア・ソビエト連邦社会主義共和国貿易人民委員部貿易・小包行政課副課長に任命。1932年、コムソモールの仕事に移り、プレス工場のコムソモール細胞書記に任命された。1931年~1932年、ザモスクヴォレツキー地区軍事課主任。
チェキスト
1932年、統合国家政治局(OGPU)に異動。1932年~1933年、OGPUモスクワ州全権代表経済課研修員、1933年~1934年、OGPU経済局第3課作戦係。1934年、女性と会うために秘密のアパートを利用していたことが発覚し、矯正労働収容所・労働村総局に左遷、作戦課第3班作戦係。1937年~1938年、ソ連内務人民委員部(NKVD)国家保安総局第4課(秘密政治)作戦係。1938年からNKVD第1局第4課、国家保安総局第2課第2班長。1938年12月、NKVDロストフ州局長代行、1939年4月、局長として承認。ロストフ・ナ・ドヌにおいて、大粛清の組織を指導したが、その弾圧手法は苛烈さを極めた。後に副人民委員、国家保安相にまで出世しても、身体能力に優れたアバクーモフは自ら尋問(拷問)することを好んだ。
スメルシ
1941年2月からソ連副内務人民委員、1941年7月に特別課局長を兼任。特別課局は、全武装組織(赤軍、海軍、民警、国内軍、国境軍)内の国家保安機関の活動を指導していた。1943年4月19日、特別課はNKVDから分離され、国防人民委員部防諜総局(スメルシ)が創設され、アバクーモフはヨシフ・スターリン直属の副国防人民委員となった。
スメルシは軍内の防諜に従事した外、ソ連の占領地における不穏分子の摘発にも従事した。特にアバクーモフの命令により、ブダペストにおいてスウェーデンの外交官、ラウル・ワレンバーグが逮捕された。1944年、北カフカース諸民族の追放の組織に参加し、クトゥーゾフ勲章と赤旗勲章を授与された。1945年1月~7月、第3白ロシア戦線NKVD全権代表を兼任。同年に拘束されたアンドレイ・ウラソフらロシア解放軍関係者の拷問も担当した。
国家保安大臣
1946年にソ連最高会議代議員に選出された。1946年4月にA.シャフリン、アレクサンドル・ノヴィコフなど、航空産業指導者が逮捕される原因となる資料を作成した。1946年5月4日にフセヴォロド・メルクーロフに代わり、ソビエト連邦国家保安大臣に任命され、スメルシも国家保安省に編入された。1946年~1951年、全連邦共産党政治局司法問題委員会委員を兼任。1948年、スターリンの指示により、ソロモン・ミホエルスの暗殺を組織。1950年~1951年、レニングラード出身の党員が逮捕・粛清されたいわゆるレニングラード事件をでっち上げる。アバクーモフの権勢は絶大なものとなり、ラヴレンチー・ベリヤのライバルの1人とも目されるようになった。民警、刑事捜索部、武装警備のような重要部門が、徐々に内務省から国家保安省に移管された。
- 1 ヴィクトル・アバクーモフとは
- 2 ヴィクトル・アバクーモフの概要
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