マッチ (競走馬)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/22 15:37 UTC 版)
マッチ | |
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欧字表記 | Match |
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 黒鹿毛 |
生誕 | 1958年 |
死没 | 1965年 |
父 | Tantieme |
母 | Relance |
母の父 | Relic |
生国 | フランス |
生産者 | Francois Dupre |
馬主 | Haras d'Ouilly |
調教師 | Francois Mathet |
競走成績 | |
生涯成績 | 14戦7勝 |
獲得賞金 | 1,746,836フラン |
かつて同名の馬がイギリスに存在したため、いくつかの資料ではマッチII (Match II) と表記されている。さらにアメリカでは同年生まれの競走馬に同名のものがいたため、こちらではマッチIII (Match III) と呼ばれた[1]。
経歴
フランス・カルヴァドス県にあった、ウィイー牧場 (Haras d'Ouilly) で生産された牡馬である。生産者名義は牧場主のフランソワ・デュプレ、馬主名義はウィイー牧場が宛がわれて競走馬として登録された。
デビューは3歳からで、ノアイユ賞に勝った後にフランスのクラシック路線に挑戦、リュパン賞やジョッケクルブ賞ではライトロイヤルの2着に敗れるが、9月のロワイヤルオーク賞で優勝、クラシック勝ち馬の称号を手にした。10月には凱旋門賞にも挑戦、5着に入った。
翌年は7月に出走したサンクルー大賞で優勝すると、続いてイギリス・アスコット競馬場のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに遠征を敢行、2着馬に3/4馬身差をつけて勝利を手にした。この後同年も凱旋門賞に挑戦したが、再び5着に敗れている。
1962年11月、マッチはアメリカ・ローレル競馬場からの招待を受けて、当時のアメリカで唯一の国際競走であったワシントンDCインターナショナルに、鞍上イヴ・サンマルタンを伴って出走した。同年の競走には、アメリカ勢として当時の3強であったケルソ・キャリーバック・ボーパープルが出走しており、またアメリカ国外からはマッチ以外にも日本のタカマガハラ、ソビエト連邦のザベッグ、イギリスのパーダオなどが登録されていた[2]。
オッズにおいてはケルソらアメリカ勢が人気を集めていたため、ほとんどの招待馬は単勝109倍の超大穴であった[2]。しかしボーパープルの調教師であったアレン・ジャーキンが「あのフランスの馬、あいつはケダモノだよ」と漏らすなど、マッチは招待馬の中でも高く評価を受け、単勝7倍とそこそこの人気に支持された[2]。
スタートからボーパープルが先手を打ったが、そこにキャリーバックとケルソが襲いかかり、その2頭で先頭を争う展開が続いていった。そして最終コーナー前でキャリーバックが力尽き、最後の直線に入ったところでケルソが完全に先頭に立つと、スタンドからはケルソの勝ちを確信したファンらのケルソコールが響きわたった。しかしその内側ラチ沿いからマッチは猛烈に追いこみ、ケルソを交わし、最終的に2着のケルソに1馬身半差をつけての優勝を飾った[2]。後にケルソの鞍上であったイスマエル・ヴァレンズエラは、この競走について「あいつが来たのは見えた。だけど自分にはあれをどうすることもできなかった。」と語っている[2]。
この競走をもって同年を終了、そして競走馬を引退した。
引退後
引退後はイギリスで種牡馬となったが、わずか3シーズン後の1965年に急死した。
産駒は非常に少なかったものの、遺児の一頭ワールドカップ(World Cup 1965年生、牡馬)がクイーンエリザベス2世ステークスに優勝し、ほかに8頭が重賞を制覇した。
日本に輸入された産駒にマッチウォン(2戦1勝)やトウケイニセイの祖母ヴェスタルファイアがいる。
- 1 マッチ (競走馬)とは
- 2 マッチ (競走馬)の概要
- 3 評価
- 4 参考文献
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