ナバス・デ・トロサの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/19 06:16 UTC 版)
戦前のイベリア半島情勢
1195年、アラルコスの戦いでカスティーリャ王アルフォンソ8世は、勢いに乗るムワッヒド朝のカリフ・ヤアクーブ・マンスールに敗れ、この戦いでムワッヒド朝はトルヒージョ(現エストレマドゥーラ州)、プラセンシア(同)などの重要な町を奪い、タラベーラ・デ・ラ・レイナ(現カスティーリャ・ラ・マンチャ州)、クエンカ(同)、トレド(同)、マドリード(現マドリード州)は落とせなかったが略奪と破壊を繰り返した。そのためタホ川流域以南は依然としてイスラム勢力の支配下に置かれることになった[1]。
しかも同年、その敗戦につけこんだ従弟のレオン王アルフォンソ9世から攻撃を受けた。これは退けたものの、元アルフォンソ8世の部下でマンスールに寝返ったペドロ・フェルナンデス・デ・カストロの仲介で、レオンはマンスールから資金と軍の提供を取り決め、ナバラ王サンチョ7世もレオンやムワッヒド朝と共謀してカスティーリャ領を攻撃した。このようにカスティーリャ王国は、東隣のアラゴン王国とはカソーラ条約で国境を定めていたが、北東のナバラと西隣のレオンとは国境紛争が繰り返されている状況であった[2]。
だが1196年にアルフォンソ9世とカストロがローマ教皇ケレスティヌス3世の怒りを買い破門、1197年にアルフォンソ8世の娘ベレンゲラとの結婚で和睦して包囲網が崩れると、同年にアルフォンソ8世はマンスールと10年の休戦を結び危機を脱した。休戦はマンスールの息子ムハンマド・ナースィルとも結ばれ、1210年まで延長された。この隙にアルフォンソ8世はナバラへ逆襲、1198年にアラゴン王ペドロ2世と結託しナバラへ侵攻、1200年までにアラバ・ギプスコア・ビスカヤを奪いバスク地方を併合、ナバラに対して優位に立った。こうしてカスティーリャは劣勢から立ち直った[注 1][3]。
一方、トレド大司教ロドリゴ・ヒメネス・デ・ラダはキリスト教国間の戦争を憂い、打倒イスラム教へ団結を呼びかけて説得に当たり成果は無かったが諦めず、代替わりした教皇インノケンティウス3世の意向を受けてムワッヒド朝に対する十字軍結成へ奔走した。それが報われ1209年にサンチョ7世とペドロ2世、アルフォンソ8世とアルフォンソ9世がそれぞれ和睦、イベリア半島のキリスト教国の和睦を確認した教皇はコインブラ・サモラ・タラソナのイベリア半島各司教に十字軍の支援を呼びかけ、ムワッヒド朝への決戦に向けて準備を進めていった[4]。
- ^ マンスールは初め休戦を拒否、マドリードなどトレド周辺都市を荒らし回っていたが、北アフリカ・チュニジアで反乱が起こり足元に火が付いたため休戦を余儀無くされた。またこの時期、アラルコスの戦いで所領や団員の多くを失ったカラトラバ騎士団・サンティアゴ騎士団など各騎士団は、教皇から新たに所領と城を補充してもらい戦力を増強した。ローマックス、P166 - P168、芝、P133。
- ^ アルフォンソ8世は普通のムスリム住民には寛容であり、カラトラバの町の住民に攻撃を予告して逃がしたために戦意を失ったフランス人騎士たちが帰国した。このフランス人たちに対する評判は悪く、帰路立ち寄ったトレドで彼等は市民から入城を拒否されたばかりか、石を投げられたり罵倒される有様で、従軍していたロドリゴはフランス人を痛烈に批判、アルフォンソ8世の娘ベレンゲラも戦後に父から報告を受け取り、フランスへ嫁いだ妹ブランカに伝達した手紙で戦勝報告とフランス人の離脱を書き送っている。ローマックス、P172、P175、鈴木、P178、芝、P224。
- ^ 脇腹へ抜ける山の間道(Despeñaperros Pass;直訳はDespeña-「絶壁から突き落とす」+-perros「犬たちorひどい、劣悪な」→「絶壁にある犬走り、間道」又は「絶壁にある劣悪な間道」か?)をこっそり通って奇襲をかけた、あるいはアンダルシア地方の「王の橋」を通ってシエラ・モレーナ山脈を通り抜けて攻撃をかけたという。鈴木、P178。
- ^ フェルナンド3世のレコンキスタが進展した背景にはムワッヒド朝やタイファの内乱があり、それに上手く付け入り町の住民へ寛大な条件で降伏を勧める調略と武力を駆使したことで容易に都市奪取が出来た。カリフ候補者のアブドゥッラー・アーディルとアブー・ムハンマド・アル・バイヤーシーの対立では1224年にバイヤーシーと兄弟のアブー・ザイドを臣従させ、親アーディル派の地方を攻撃、バイヤーシーから協力の見返りにいくつかの都市を獲得した。1233年にはイブン・フードとグラナダ王ムハンマド1世の争いに乗じて、ムワッヒド朝に奪還されていたウベダを再占領、1236年にムハンマド1世と協力しながらコルドバを包囲して落とし、1243年のムルシア降伏でレコンキスタは順調に進んだ。1246年にムハンマド1世の臣従とハエン引き渡しも約束させ、1248年のセビリア陥落でレコンキスタは事実上の終結を迎えた。ローマックス、P188 - P190、P197 - P212、芝、P146 - P147。
- ^ ローマックス、P162 - P165、芝、P131 - P132、関、P113、P153、西川、P138。
- ^ ローマックス、P165、芝、P132、P193、西川、P138 - P139。
- ^ バード、P68、ローマックス、P165 - P166、芝、P132 - P134、P194、関、P153 - P154、西川、P139 - P140。
- ^ ローマックス、P168、芝、P134。
- ^ ローマックス、P168 - P169、芝、P137 - P138。
- ^ ローマックス、P169 - P170、芝、P138、西川、P140 - P141。
- ^ ローマックス、P170 - P171、芝、P138 - P139。
- ^ ローマックス、P171 - P172、芝、P139、西川、P141。
- ^ ローマックス、P172 - P173。
- ^ 芝、P139 - P140。
- ^ バード、P69 - P70。
- ^ ローマックス、P187、P191 - P192、P222、芝、P142 - P144、関、P115 - P116、P121。
- ^ ローマックス、P174 - P183、芝、P140 - P141、P144 - P146、西川、P142。
- ^ ローマックス、P188 - P216、芝、P146 - P148、関、P154、西川、P144 - P145。
- ^ ローマックス、P193 - P194、P202 - P203、芝、P146、関、P222 - P223、西川、P145 - P146。
固有名詞の分類
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