トマス・ハーディ (イギリス海軍) バルト海艦隊とコペンハーゲンの海戦

トマス・ハーディ (イギリス海軍)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 14:14 UTC 版)

バルト海艦隊とコペンハーゲンの海戦

コペンハーゲンの海戦 ニコラス・ポコック作

陸上で1年を過ごしたのち、ハーディは1800年12月に、修理が終わったばかりの5等艦サン・ジョセフ英語版の指揮を執るため、プリマス乾ドックに向かった[19]1801年2月には、2等艦セントジョージ英語版に配属され、再びネルソンのフラッグキャプテンとなった[20]。ネルソンは2度目のバルト海艦隊の指揮官の任務に就いていた。この艦隊は武装中立同盟からの撤退のため、デンマークの攻撃目的で派遣された。1801年4月1日の夜、ハーディはボートで、停泊中のデンマーク艦隊の回りの水深測定に派遣された。この船はかなり浸水し、そのため翌日のコペンハーゲンの海戦には参加できなかった。後になって、ハーディが行った仕事はかなり価値の高いものであることが証明された。この時座礁したのは、3等艦アガメムノンベローナの2隻のみで、両艦は地元の案内人の指示を受けており、ハーディが勧めた針路に従っていなかった[21]。ハーディはその年の8月までチャールズ・ポール英語版中将座乗の新艦隊のフラッグキャプテンを務め、そして4等艦イシス英語版の指揮を執った[22]

地中海及び西インド方面作戦

1802年7月、ハーディは、5等艦アンフィオン英語版の艦長としてリスボンに新任の大使を送り、その後ポーツマスに戻った[23]。ポーツマスにはネルソンがいた。というのも、ネルソンは1803年に「ヴィクトリー」を旗艦としたが、まだ「ヴィクトリー」の準備が十分でないことがわかり、「アンフィオン」を旗艦として地中海に赴いたのである[24]。1803年7月31日、ネルソンとハーディは最終的にトゥーロン沖で「ヴィクトリー」へと移動した[25]。ハーディはただネルソンのフラッグキャプテンであるだけではなく、ネルソン艦隊の非公式な指揮官でもあった[21]。ネルソン艦隊は、1805年の4月までトゥーロンの封鎖を続けたが、その時フランス海軍は逃走して西インド諸島まで追跡され、戻ってきた[26]8月20日から9月14日までの短い活動停止期間の後、カディスに向けて出港し、1805年9月29日に到着した[27]

トラファルガーの海戦

ネルソンの臨終。アーサー・ウィリアム・デヴィス作(ネルソンの右後ろにいるのがハーディであるが、実際には臨終の場には立ち会っていない)

1805年10月21日、「ヴィクトリー」が敵の防御線に近づき、ハーディはネルソンに、必ずや起こるであろう混乱を避けるために、ネルソンに他の艦に移るように促した。しかしネルソンは拒否した。「ヴィクトリー」は風上に戦列を率いて、トラファルガーの海戦の第一章である激しい砲撃を浴びた。とある局面で、艦の破片がハーディの靴のバックルをはがしたが、ネルソンはそれを見てこう言った。「これはかなりの激戦だな、長くは続かんぞ」ネルソンが砲撃された時ハーディは一緒にいたが、戦闘が終わりに近づき、ネルソンが瀕死の床に横たわっている時、この両者は共に多くの会話を交わした[28]。ハーディはネルソンに、14隻ないしは15隻のイギリス艦が敵を打ち負かしたことを伝えた、ネルソンはこれにこう答えた。「20隻は敵を敗れたはずだが」[29]彼らの最後の会話では、ハーディに艦隊に投錨するよう注意した[29]。続けてネルソンはこうも言った、「わが愛するハミルトン夫人、ハーディ、あの気の毒な夫人の面倒を見てくれ。キスしてくれ、ハーディ」そして最後の言葉が「君に神のご加護があらんことを」[29]「ヴィクトリー」はジブラルタルに曳航され、1805年10月28日にジブラルタルに入港して、大がかりな修理に入り、11月4日にイギリスに向けて出港して、12月5日にポーツマスに戻った[30]。そこでネルソンの遺体は、シアネス英語版の長官ジョージ・グレイヨットに乗せられ、グリニッジへと運ばれた[31]。ハーディはネルソンの葬礼で、彼の将官旗の1枚を持って進んだ[32]


  1. ^ 本来は規則違反である[5]
  2. ^ 1794年までは「マスター・アンド・コマンダー」と称されていたが、その後コマンダーという名称になった[11]
  1. ^ Broadley 1906, p. 12.
  2. ^ Hutchins 1861, p. 760.
  3. ^ a b c d Laughton, J. K.. “Hardy, Sir Thomas Masterman” [ハーディ, サー・トマス・マスターマン] (英語). Oxford Dictionary of National Biography. 2013年1月13日閲覧。
  4. ^ a b Heathcote 2005, p. 77.
  5. ^ 小林 2007, p. 86.
  6. ^ Broadley 1906, p. 26.
  7. ^ a b Heathcote 2005, p. 78.
  8. ^ Broadley 1906, p. 27.
  9. ^ Broadley 1906, p. 28.
  10. ^ Broadley 1906, p. 29.
  11. ^ 小林 2007, pp. 73-74頁.
  12. ^ Broadley 1906, p. 32.
  13. ^ Heathcote 2005, p. 79.
  14. ^ Broadley 1906, p. 36.
  15. ^ Heathcote 2005, p. 80.
  16. ^ Broadley 1906, p. 41.
  17. ^ Broadley 1906, p. 42.
  18. ^ Broadley 1906, p. 43.
  19. ^ Broadley 1906, p. 55.
  20. ^ Broadley 1906, p. 61.
  21. ^ a b Heathcote 2005, p. 81.
  22. ^ Broadley 1906, p. 74.
  23. ^ Broadley 1906, p. 98.
  24. ^ Broadley 1906, p. 108.
  25. ^ Broadley 1906, p. 110.
  26. ^ Broadley 1906, p. 125.
  27. ^ Broadley 1906, p. 138.
  28. ^ Broadley 1906, p. 142.
  29. ^ a b c Broadley 1906, p. 143.
  30. ^ Broadley 1906, p. 146.
  31. ^ Hibbert 1994, p. 382.
  32. ^ "No. 15881". The London Gazette (英語). 14 January 1806. p. 54. 2013年1月13日閲覧
  33. ^ "No. 15885". The London Gazette (英語). 28 January 1806. p. 128. 2013年1月13日閲覧
  34. ^ Broadley 1906, p. 155.
  35. ^ Heathcote 2005, p. 86.
  36. ^ Broadley 1906, p. 160.
  37. ^ a b Broadley 1906, p. 161.
  38. ^ Broadley 1906, p. 164.
  39. ^ Ellis 2009, pp. 181-183.
  40. ^ Ellis 2009, pp. 186-189.
  41. ^ "No. 16972". The London Gazette (英語). 4 January 1815. p. 19. 2013年1月13日閲覧
  42. ^ Broadley 1906, p. 177.
  43. ^ "No. 18141". The London Gazette (英語). 28 May 1825. p. 933. 2013年1月13日閲覧
  44. ^ Broadley 1906, p. 199.
  45. ^ a b Heathcote 2005, p. 87.
  46. ^ Sainty, J C (1975年). “'Lord High Admiral and Commissioners of the Admiralty 1660-1870', Office-Holders in Modern Britain: Volume 4: Admiralty Officials 1660-1870” [「海軍本部の総司令官と弁務官 1660-1870」、近代イギリスの公務員:第4巻:海軍本部 1660-1870] (英語). pp. 18–31. 2013年1月13日閲覧。
  47. ^ "No. 18851". The London Gazette (英語). 16 September 1831. p. 1899. 2013年1月13日閲覧
  48. ^ "No. 19146". The London Gazette (英語). 15 April 1834. p. 676. 2013年1月13日閲覧
  49. ^ "No. 19456". The London Gazette (英語). 10 January 1837. p. 70. 2013年1月13日閲覧
  50. ^ (英語) Burke's Extinct Baronetcies [バーク編 消滅した准男爵位]. (1841) 
  51. ^ (英語) Debrett's Baronetage of England [デブレット編 イングランドの准男爵]. (1838) 
  52. ^ “Issue 2656”. Hampshire Telegraph and Sussex Chronicle etc (Portsmouth, England). (1850年8月31日) 





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