トマス・ハーディ (イギリス海軍)
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バルト海艦隊とコペンハーゲンの海戦
陸上で1年を過ごしたのち、ハーディは1800年12月に、修理が終わったばかりの5等艦サン・ジョセフの指揮を執るため、プリマスの乾ドックに向かった[19]。1801年2月には、2等艦セントジョージに配属され、再びネルソンのフラッグキャプテンとなった[20]。ネルソンは2度目のバルト海艦隊の指揮官の任務に就いていた。この艦隊は武装中立同盟からの撤退のため、デンマークの攻撃目的で派遣された。1801年4月1日の夜、ハーディはボートで、停泊中のデンマーク艦隊の回りの水深測定に派遣された。この船はかなり浸水し、そのため翌日のコペンハーゲンの海戦には参加できなかった。後になって、ハーディが行った仕事はかなり価値の高いものであることが証明された。この時座礁したのは、3等艦アガメムノンとベローナの2隻のみで、両艦は地元の案内人の指示を受けており、ハーディが勧めた針路に従っていなかった[21]。ハーディはその年の8月までチャールズ・ポール中将座乗の新艦隊のフラッグキャプテンを務め、そして4等艦イシスの指揮を執った[22]。
地中海及び西インド方面作戦
1802年7月、ハーディは、5等艦アンフィオンの艦長としてリスボンに新任の大使を送り、その後ポーツマスに戻った[23]。ポーツマスにはネルソンがいた。というのも、ネルソンは1803年に「ヴィクトリー」を旗艦としたが、まだ「ヴィクトリー」の準備が十分でないことがわかり、「アンフィオン」を旗艦として地中海に赴いたのである[24]。1803年7月31日、ネルソンとハーディは最終的にトゥーロン沖で「ヴィクトリー」へと移動した[25]。ハーディはただネルソンのフラッグキャプテンであるだけではなく、ネルソン艦隊の非公式な指揮官でもあった[21]。ネルソン艦隊は、1805年の4月までトゥーロンの封鎖を続けたが、その時フランス海軍は逃走して西インド諸島まで追跡され、戻ってきた[26]。8月20日から9月14日までの短い活動停止期間の後、カディスに向けて出港し、1805年9月29日に到着した[27]。
トラファルガーの海戦
1805年10月21日、「ヴィクトリー」が敵の防御線に近づき、ハーディはネルソンに、必ずや起こるであろう混乱を避けるために、ネルソンに他の艦に移るように促した。しかしネルソンは拒否した。「ヴィクトリー」は風上に戦列を率いて、トラファルガーの海戦の第一章である激しい砲撃を浴びた。とある局面で、艦の破片がハーディの靴のバックルをはがしたが、ネルソンはそれを見てこう言った。「これはかなりの激戦だな、長くは続かんぞ」ネルソンが砲撃された時ハーディは一緒にいたが、戦闘が終わりに近づき、ネルソンが瀕死の床に横たわっている時、この両者は共に多くの会話を交わした[28]。ハーディはネルソンに、14隻ないしは15隻のイギリス艦が敵を打ち負かしたことを伝えた、ネルソンはこれにこう答えた。「20隻は敵を敗れたはずだが」[29]彼らの最後の会話では、ハーディに艦隊に投錨するよう注意した[29]。続けてネルソンはこうも言った、「わが愛するハミルトン夫人、ハーディ、あの気の毒な夫人の面倒を見てくれ。キスしてくれ、ハーディ」そして最後の言葉が「君に神のご加護があらんことを」[29]「ヴィクトリー」はジブラルタルに曳航され、1805年10月28日にジブラルタルに入港して、大がかりな修理に入り、11月4日にイギリスに向けて出港して、12月5日にポーツマスに戻った[30]。そこでネルソンの遺体は、シアネスの長官ジョージ・グレイのヨットに乗せられ、グリニッジへと運ばれた[31]。ハーディはネルソンの葬礼で、彼の将官旗の1枚を持って進んだ[32]。
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- ^ “Issue 2656”. Hampshire Telegraph and Sussex Chronicle etc (Portsmouth, England). (1850年8月31日)
- 1 トマス・ハーディ (イギリス海軍)とは
- 2 トマス・ハーディ (イギリス海軍)の概要
- 3 バルト海艦隊とコペンハーゲンの海戦
- 4 その後の指揮
- 5 昇進とバス勲章の叙勲
- 6 参考文献
- 7 関連図書
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