ディッキー・チャペル ディッキー・チャペルの概要

ディッキー・チャペル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/05 16:05 UTC 版)

人物

ウィスコンシン州シャーウッドで生まれ、16歳になる頃にはマサチューセッツ工科大学にて航空デザインを学ぶが、デザインよりもパイロットになる勉強に興味を抱いたディッキーは、フロリダで祖父母と暮らしながら学校に通った。その後、ニューヨークに渡り夫となるトニー・チャペル (Tony Chapelle) と出会う。同時にトランス・ワールド航空の写真家として雇われた。プロとして活動するようになったチャペルは15年でトニーと離婚し、ディッキー・チャペルと名前を変える。

第二次世界大戦でディッキーは戦争写真家に興味を持ち、硫黄島沖縄に出向きナショナルジオグラフィック社の一員として写真を残している。戦後、彼女は世界を旅し1956年に勃発したハンガリー動乱にも写真家として参加したが7週間もの間拘留されていた。パラシュートでの降下を学び、それ以後彼女はパラシュートを常に持ち運ぶようになった。

ベトナム戦争が始まり、彼女は兵士に混じり、厳しい環境の中戦地に入っていった。しかし1965年11月4日、ベトナムにて敵のブービートラップによって頚動脈を切断され命を落とした。

彼女の最期の瞬間を同じく戦争写真家アンリ・ユエがカメラに収めている。耳にパールのピアスをし、ハットのリボンと野の花をつけた彼女の最期の言葉は、「こうなると思っていたわ」だった。

関連

アメリカのシンガーソングライターナンシー・グリフィス(Nanci Griffith)の『パールズ・アイ・ヴュー』(Pearls Eye View)はディッキー・チャペルの生涯を歌ったものである。




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