ティルチラーパッリ包囲戦 (1743年) ティルチラーパッリ包囲戦 (1743年)の概要

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ティルチラーパッリ包囲戦 (1743年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/02 20:25 UTC 版)

ティルチラーパッリ包囲戦
Siege of Tiruchirappalli
1743年3月 - 8月29日
場所インドティルチラーパッリ
結果 ニザーム王国カルナータカ太守連合軍の勝利、ティルチラーパッリの占領
衝突した勢力
マラーター王国

ニザーム王国[1]

カルナータカ太守
指揮官
ムラーリー・ラーオ・ゴールパデー英語版 アーサフ・ジャー
サアーダトゥッラー・ハーン2世
アンワールッディーン・ハーン
戦力
10,000人 騎兵80,000人[2]
歩兵200,000人 [2]

戦闘に至る経緯

1742年10月3日カルナータカ太守サフダル・アリー・ハーンは宮廷内の争いから、ムルタザー・アリー・ハーンに暗殺された[3]。 だが、デカン地方ニザーム王国がこれに介入し、1743年3月アルコットを占領し、その幼い息子サアーダトゥッラー・ハーン2世が即位した[4]

一方、1741年初頭のティルチラーパッリ包囲戦以来、ティルチラーパッリマラーター王国から派遣されたムラーリー・ラーオ英語版の支配下に置かれていた。

そして、ニザーム王国およびカルナータカ地方政権の連合軍は、マラーターの支配していたティルチラーパッリに兵が送った。

包囲戦

かくして、ニザーム王国とカルナータカ地方政権の圧倒的多数の大軍はティルチラーパッリを包囲するところとなった[4]

ハティルチラーパッリに立て籠もるマラーター軍は10,000人足らずであり、この大軍にかなうはずもなく、かなり不利な状況に追い込まれた[4]

8月29日、守将ムラーリー・ラーオは降伏してティルチラーパッリを明け渡し、連合軍は大した流血もなくこの地を奪い返した[4]

その後の経過

こうして、ティルチラーパッリはニザーム王国の支配するところとなり、ニザーム側は本国に兵を引き上げ、ホージャ・アブドゥッラー・ハーンをこの地の代官とした。

1744年7月、太守サアーダトゥッラー・ハーン2世は殺害され、後見役であったアンワールッディーン・ハーンがニザームによって太守に任命され、同年には英仏間で第一次カーナティック戦争が勃発した[3]

1746年12月以降、マラーター王国の宰相バーラージー・バージー・ラーオの従兄弟サダーシヴ・ラーオ・バーウは南インドへと遠征し、ティルチラーパッリの周辺地域を奪い返した。ニザームの息子ナーシル・ジャングは奪い返そうとしたものの、逆に敗れて追い返されてしまった。

結局、この地域のマラーター勢力はのち、イギリスフランスの両国によって一掃された。


  1. ^ 1
  2. ^ a b 1
  3. ^ a b 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.198
  4. ^ a b c d Advanced study in the history of modern India 1707-1813


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