ジョー・ピニャタノ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/23 22:54 UTC 版)
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ニューヨーク・メッツコーチ時代のピニャタノ(1969年) | |
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ニューヨーク・ブルックリン区 |
生年月日 | 1929年8月4日 |
没年月日 | 2022年5月23日(92歳没) |
身長 体重 |
5' 10" =約177.8 cm 180 lb =約81.6 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1948年 |
初出場 | 1957年4月28日 |
最終出場 | 1962年9月30日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
1948年、高校在学中にブルックリン・ドジャーズと契約、メジャーリーグにデビューしたのは9年後の1957年、27歳になってからであった。ドジャーズでは控え捕手でシーズン50試合前後の出場だったが、1961年にカンザスシティ・アスレチックスに移籍し83試合に出場している。1959年のワールドシリーズでは守備固めで1イニングだけ出場、打席には立っていない。
ピニャタノは1962年9月30日の対シカゴ・カブス戦で、『現役最後の打席をトリプルプレーで終えた選手』としても知られている。
1962年で現役選手を引退し、1965年以降ブルペンコーチなどを長く務めた。特にニューヨーク・メッツには1968年から14シーズン在籍し、1969年の「ミラクル・メッツ」の立役者の一人にもなったが、この頃からピニャタノはシェイ・スタジアムのブルペンの中に小さな菜園を作って、トマトを栽培し始めていたという。この菜園は後にグラウンドキーパーらの手でさらに規模が大きくされ、1990年代にはヒマワリやトウモロコシまで植えられた。[3]
また1974年に日米野球で来日し、その際行われた王貞治とハンク・アーロンのホームラン競争において、アーロンの投手役を務めたのがピニャタノである。
詳細情報
打撃成績
試合 | 打数 | 安打 | 二塁打 | 三塁打 | 本塁打 | 得点 | 打点 | 盗塁 | 三振 | 四球 | 死球 | 犠打 | 打率 | 出塁率 | 長打率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
307 | 689 | 161 | 25 | 4 | 16 | 81 | 62 | 8 | 116 | 94 | 8 | 16 | .234 | .332 | .351 |
獲得タイトル・記録
- ワールドシリーズ出場:1回(1959年)
- ^ 日本語表記はイタリア語の日本語表記を参考とした。
- ^ “Joe Pignatano passed away this morning” (英語). MLB.com. 2022年5月23日閲覧。
- ^ 後年ブレーブスやタイガース、レッドソックスなどがブルペンの中に菜園を作っていたことがあった。
- 1 ジョー・ピニャタノとは
- 2 ジョー・ピニャタノの概要
- 3 出典・外部リンク
固有名詞の分類
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