ギリシャの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 07:48 UTC 版)
ドイツ軍の進撃
ユーゴスラビア軍の崩壊
4月6日夜明け、ドイツ空軍がベオグラードへの爆撃を開始、ドイツ軍は侵攻を開始した。第XL装甲軍団は5時半、攻撃を開始、ユーゴスラビアを南部を横断すべく、ブルガリアから二手に分かれて侵攻した。4月28日夕方までにSS連隊LSSAHはプリレプを占領した。こうして、ベオグラード、テッサロニキ間の重要なルートは切断され、ユーゴスラビアは孤立しつつあり、ドイツ軍はその時点で攻撃に有利な地点を占拠していた。4月9日夕方、フロリナでギリシャ国境を突破した第XL装甲軍団は攻撃を拡大するためにモナスティールの北へ展開した。この位置を確保することにより、フロリナ、エデッサ、カテリニでWフォース(イギリス連邦軍)、アルバニア内のギリシャ軍は包囲される可能性が生じた[60]。ユーゴスラビア中部からのこの不意の攻撃が両軍の後部へ回ろうとしている間、第9装甲師団の主力はアルバニア国境でイタリア軍と接触を図るために西へ進んだ[61]。
第XVIII山岳軍団所属の第2装甲師団は4月6日早朝、東からユーゴスラビアに侵入、ストルマ川を通過して西へ進んだ。ほとんど敵の抵抗はなく、ただ障害物、地雷の除去、道がぬかるんでいたということで遅れを見せたが、師団はその日、ストルミツァを占領、目的を達した。4月7日、師団北側へのユーゴスラビア軍の反撃は撃退され、翌日、師団はドイラン湖付近に布陣していたギリシャ第19自動車化歩兵師団を撃破した。師団は幅の狭い山道に進撃の遅れを見せたが、4月9日早朝、テッサロニキへの進撃に成功、テッサロニキは戦闘無しで制圧され、それはギリシャ第2軍の崩壊につながった[62]。
メタクサスライン
メタクサスラインはギリシャ東マケドニア軍が防衛を担当しており、司令官コンスタンチノス・バコプロス中将の指揮下に第7、第14、第17歩兵師団が所属していた。メタクサスラインはユーゴスラビア国境からブルガリアのゴツェ・デルチェフ方面に東へ伸び、その後エーゲ海へ抜ける総距離170kmに及ぶものだった。メタクサスラインは200,000名の将兵を駐留できるように設計されていたが、兵力不足で約70,000名しか配属できなかった。そのため、ラインには薄く広く兵を配備するしかなかった[63]。
メタクサスラインへのドイツによる攻撃は第XVIII山岳軍団の2個山岳師団に支援された1個歩兵連隊によって開始された。しかし、メタクサスラインのギリシャ軍の反撃により、これは限定的な成功しか収められなかった[64]。初日、ドイツ第5山岳師団は「強力な航空支援にもかかわらず、ルペル峠で撃退され犠牲者を多く出した」と報告した[65]。24箇所存在したメタクサスラインの防衛陣地の内、2箇所が撃破され、後に全て撃破されたが[66]、ルペル、エキノスなど要塞化した都市はその後3日間、ドイツ軍の攻撃に耐えた[67]。
メタクサスラインは3日間は耐えたが、ドイツ軍による砲撃、急降下爆撃の前に撃破され、ドイツ軍の突破を許した。この突破はドイツ第6山岳師団によって行われたもので、高さ約2,100mの雪に覆われた山脈を横断し、思わぬ場所からギリシャ軍を撃破、突破したものだった。師団は4月7日夕方、テッサロニキの鉄道線に到着し、他の第XVIII山岳軍団の部隊は困難な進撃を行っていた。同日、ドイツ第5歩兵師団は強化された第125歩兵連隊と共にストルマ川の両岸に沿ってギリシャ軍を攻撃した。ドイツ第72歩兵師団はゴツェ・デルチェフから山を越えて進撃し、山岳装備、砲兵等の不足というハンデを背負いながらも4月9日夕方にメタクサスラインの突破に成功、セレス北東まで進撃した[68]。しかし、東マケドニア軍司令官バコプロスが降伏した後も、孤立した要塞はドイツ軍が大型砲で攻撃を開始するまで何日も持ちこたえ、一部ギリシャ将兵が船で脱出する時間を作り出すこととなった[69]。
ギリシャ第2軍の降伏
攻撃線の左翼をなしている第XXX歩兵軍団は4月8日夕方、進撃予定地点に到達、第164歩兵師団はクサンティを占拠した。第50歩兵師団はコモティニをメスト川方面へ進撃、両師団は翌日に到着した。4月9日、ギリシャ第2軍はアクシオス川東の防衛線が崩壊した後に無条件降伏した。4月9日、第12軍司令官リストによる状況判断では自動車化された部隊の早い進撃の結果、第12軍がアクシオス川周辺のギリシャ軍を撃破することにより、ギリシャ中部への進撃を可能にする位置を占拠したことが良い結果につながったとしており、この判断に基づいて、リストは第1装甲集団から第XL軍団へ第5装甲師団を移籍させるよう要請した。リストはそうすることにより、モナスティールの隘路を通過してドイツ軍の進撃をさらに強力にできると結論付けた。この作戦の為に、第XVIII山岳軍団を中心とした東のグループ、第XL装甲軍団を中心とした西のグループの二手に分けて進撃させた[70]。
コザニの突破
4月10日朝までに第XL装甲軍団は攻撃準備を完了、コザニ方面への進撃を開始した。4月10日朝までに第XL装甲軍団は攻撃準備を終了、コザニ方面への進撃を開始した。すでに防衛が強化されていると考えられていたモナスティールには防衛の隙間が存在しており、ドイツ軍はこの好機を利用した。イギリス連邦、ギリシャ連合部隊との接触はベビ(Vevi)の北で4月10日11時に始まり、SS連隊は4月11日、ベビを占領したが、南側の峠で進撃を止められた。そこでイギリス軍のウィルソン卿はイギリス連邦、ギリシャ混合部隊(司令官の名前から、マッカイフォースと呼ばれる)を移動させ、フロリナの谷でドイツ軍を食い止めるよう命令した[71]。その翌日、SS連隊は偵察を行い、夕方に峠への正面攻撃を開始、激戦の末に撃破した[72]。4月14日朝までには第9装甲師団の先遣部隊がコザニに到着した。
峠戦
ウィルソンはテッサロニキから進撃しているドイツ軍を足止めしなければならなくなっていたが、その一方でモナスティールの隘路を進撃しているドイツXL軍団が側面にいた。4月12日、ウィルソンはモナスティール川、テルモピュレなどの峠から全てのイギリス軍を撤退させることを決定した。4月14日、ドイツ第9師団はモナスティール川の全域で橋頭堡を確保したが、この地点からの進撃はイギリス連邦軍の激しい砲火で停止させられた。ウィルソンの撤退行動に付随する防衛作戦には3つの防御線が存在した。1つ目はオリンパスとエーゲ海の間のプラタモン(Platamon)トンネル、2つ目はオリンパス峠、最後はセルビア(ギリシャ北部Servia、セルビア共和国ではない)の峠であった。この2本の隘路を通過する進撃をドイツ軍が行うことにより、イギリス連邦軍は効果的な防衛戦を行おうとした。オリンパスの峠、セルビアの峠の防衛は第4、第5ニュージーランド旅団、第16オーストラリア旅団が担当し、翌日からの3日間、ドイツ第9装甲師団の進撃はこのために遅れを見せた[73]。
プラタモンに繋がる尾根には荒廃した古城が存在したが、これを制しているイギリス連邦軍は海岸へと繋がる峠を押さえていた。4月15日、ドイツ軍の戦車大隊の支援を受けたオートバイ大隊が古城を攻撃したが、ドイツ軍はマッカイ大佐率いる第21ニュージーランド大隊に撃退され、作戦に大きな支障をきたした。その日遅く、ドイツ装甲連隊が到着、ニュージーランド大隊に山側から攻撃を加えたが、大隊はこれを撃退した。15〜16日の深夜、ドイツ軍は戦車大隊、歩兵大隊、オートバイ大隊を集め、戦力を増強した。数時間、ドイツ軍装甲部隊が海岸方面から攻撃を加えた後の夜明け頃、ドイツ歩兵部隊がニュージーランド軍の左側面の中隊を攻撃した[74]。
この攻撃のためにニュージーランド大隊はピネオス川を横断して夕暮れまでにピネオスゴージュ(Pineios Gorge)の西へ撤退したが、犠牲者は少数で済んだ。しかしマッカイ大佐はその退却について、「たとえ全滅を意味したとしても4月19日まで防衛しなければならなかった」と通達された[75]。大隊が峡谷を渡り終えた後、マッカイ大佐は防衛のために峡谷西端の艀を沈めさせた。ニュージーランド第21大隊は、まずオーストラリア第2/2大隊、後にオーストラリア第2/3大隊の増強を受けた。オーストラリア第2/5、第2/11大隊は、谷間を南西にザキントス島方面に移動、3日から4日の間、谷間の西口を押さえるよう命令された[76]。
4月16日、ウィルソン卿はラミア(Lamia)でパパゴスと会談、部隊をテルモピュレイに退却させると伝えた。そこでブレーミー(Thomas Blamey オーストラリア軍)はテルモピュライへ撤退している間、マッカイ(Iven Giffard Mackay オーストラリア軍)とフライバーグ(Bernard Freyberg, 1st Baron Freyberg ニュージーランド軍)に防衛任務を負わせた。マッカイはラリッサを通る東西の防衛線を南からニュージーランド師団に支援させ、さらにサヴィージ、ザルコスらの部隊をドモコスを経由してテルモピュライへ撤退させた。イギリス第1機甲旅団はサヴィージの部隊がラリッサへ撤退するのを支援、その後、第6師団の撤退も支援した。フライバーグの部隊はニュージーランド師団と同じルートを撤退するアレンの部隊の撤退を支援した。イギリス軍は全部隊の撤退が完了するまで支援攻撃をおこなっていた[77]。
4月18日朝、ピネイオス(pineios)川での戦いは終了し、ドイツ装甲部隊は浮き橋で川を渡り、ドイツ第6山岳師団はニュージーランド大隊を包囲して進み、これを殲滅した。4月19日、第XVIII山岳軍団はラリッサを占領、飛行場を手に入れ、また、イギリス軍の補給物資を入手した。ボロスの港(そこはイギリス軍が上陸した港でもあった)は4月21日陥落、ドイツ軍はディーゼル燃料、ガソリンなどを手に入れた[78]。
ギリシャ第1軍の撤退と降伏
ドイツ軍はギリシャ本土に深く侵入していたが、アルバニアに位置していたギリシャ第1軍は撤退を行っていなかった。このことをウィルソンは「たった1ヤードの土地さえもイタリア軍に与えたく無いがための愚考」と皮肉ったが[79]、結局、4月13日までギリシャ第1軍は撤退の気配を見せなかった。連合軍がテルモピュライへの撤退したために、ギリシャ軍が撤退に使用するピンダス山脈を横切るルートはドイツ軍に遮断される恐れがあった。その頃、ドイツSS連隊LSSAHはメツォボ(Metsovon)の峠を西へイオアニアへ進撃してギリシャ第1軍をアルバニアから切り離す任務を与えられた[80]。4月14日、カストリア(Kastoria)の峠で激しい戦いが行われ、ドイツ軍はギリシャ軍の撤退を阻止した。イタリア軍がギリシャ第1軍への追撃をためらっている間、ギリシャ軍は全面的な撤退を行い始めた[81]。
パパゴスはメツォボへ急行した。4月18日、ドイツSS連隊LSSAHはギリシャ軍部隊と激戦を交わしグレヴェナ(Grevena)へ進撃した[81]。ギリシャ軍部隊は自動車化されたドイツ軍に包囲され、圧倒された。そのため、ドイツ軍はさらに進撃し、4月19日ギリシャ第1軍の最終補給地点イオアニアを攻略した[82]。このことを連合国の新聞は現代ギリシャの悲劇と表現した。元従軍記者で歴史家のクリストファー・バックリーはギリシャ軍の運命について、それは現実のアリストテレスのカタルシスであり、全ての人々の努力と勇気の無益さを恐るべき感覚で経験させた、と述べている[83]。
4月20日、アルバニアのギリシャ軍(司令官ゲオルギオス・ツォラコグル、14個師団所属)は状況が絶望的であることを理解し、ドイツ軍に降伏を申し出た[81]。歴史家ジョン・キーガンは「ツォラコグルがイタリア軍に降伏したくがないために、許可されていない単独での降伏の交渉を、ドイツSS連隊LSSAH司令官、ヨーゼフ・ディートリヒと行った」と書いている。ヒトラーの厳命により、イタリア軍にこのことは伏されたが、ヒトラーは降伏を了承した[81]。しかし、このことを知ったイタリア統領ムッソリーニは激怒、退却しているギリシャ軍への反撃を命令した。4月23日に休戦が決定されるまで、ヒトラーとムッソリーニは話し合った[84]。ギリシャ軍将兵は捕虜として扱われず、将校は軍服の着用、武器の保持をゆるされ、兵士は動員解除後、帰宅も許された[85]。
ドイツの追撃とイギリスの撤退
ドイツ軍は4月16日にはすでに連合軍がヴォロス(Volos)、ピレウスから船で撤退しているという情報を掴んでおり、ドイツ軍は追撃に移った。ドイツ軍は退却しているイギリス軍との接触を維持して、イギリスの退却の裏をかこうとし、機動力のない歩兵師団は作戦より除外され、第2、第5装甲師団、第1SS自動車化歩兵連隊と2個山岳師団がイギリス軍の追撃を開始した[86]。
一方、ウィルソンはイギリス軍主力の退却を支援するために、テルモピュライの峠で後衛として最後の防衛を行うよう命令し、マッカイがブラロス(Brallos)の村を占拠する間、フライバーグは沿岸の峠を防衛することとなった。戦いの後、マッカイは「撤退のことは夢にも考えなかった。我々が二週間持ちこたえて、その後、敵の大群に撃破されると思っていた」と語った[88]。4月23日朝、撤退命令がでると2箇所の地点においてそれぞれ1個旅団が防衛、保持することとされた。この任務を命令されたのはオーストラリア第19旅団とニュージーランド第6旅団であり、できる限り峠を保持することとされ、その間に他の部隊の撤退を行うこととされた。4月24日11時半、ドイツ軍は攻撃を開始したが、戦車15両を失い、多くの犠牲者を出した[89]。旅団は丸一日持ちこたえ、遅滞行動をとりながら海岸方向へ撤退し、テーバイでもう一度、防衛線を築いた[90]。これを追撃していたドイツ装甲部隊は峠を中心とする山道に苦しみ、その進撃は鈍っていた[91]。
ドイツのアテネ進撃
アテネへの部隊の入場に関する議論はそれ自体が物語であった。総統はギリシャの尊厳を損なわないよう戦勝パレードを行いたくなかったが、ムッソリーニはイタリア軍のために大掛かりな戦勝パレードを行うよう主張した。総統はイタリアの要求を受け入れた。しかし、ギリシャ軍に打ち負かされたイタリア軍によるパレードはギリシャ人たちに空虚な笑いをもたらしたに違いない。 |
ヴィルヘルム・カイテル[92] |
イギリス軍はテルモピュライの陣地を放棄した後、テーバイの南の即応防衛陣地へ退却、そしてアテネで最終防衛陣地を築いた。ドイツ第2装甲師団(ハルキスの港を占領するためにエヴィア島へ渡っており、後に戻った)のオートバイ大隊はイギリス軍の後ろに回る任務を与えられた。オートバイ大隊はわずかな抵抗を受けただけで4月27日朝、アテネに到着、以後、装甲車、戦車、歩兵らが続々と到着した。ドイツ軍は大量の燃料(数千トン)、砂糖をつんだ10台のトラック、武器、医薬品、弾薬を積んだ10台のトラックなどを手に入れた[93]。アテネ市民はドイツ軍が数日後にはアテネに侵入すると考えており、家に引きこもり、厳重に戸締りをした。 ドイツ軍がアテネに入る前日、アテネのラジオは以下の発表を行った。
こちらはギリシャの声です。ギリシアは尊厳で、誇りある断固たる態度を示しました。皆さんは皆さん自身が歴史に値することを理解してください。私たちのギリシャ軍の勇気と勝利はすでに評価されています。私たちの目的の正当性も認められ、正に私たちの義務を果たしました。ギリシャは復活し、そして再び偉大な国になるでしょう。なぜならギリシャは正義と自由のために戦ったのですから。兄弟よ!勇気と忍耐を!そして誇り高くあってください。ギリシャの人々よ!あなたたちの心の中のギリシャは誇り高く、威厳を持たねばなりません。私たちは正しき国家、そして勇敢な兵士でした[94]。
4月23日、ドイツ国防軍とイタリア軍、ギリシャ軍の各代表によりギリシャ北西部のマケドニア、西北部のイピロス両地域においての休戦協定が締結された。同日、国王ゲオルギオス二世は、クレタ島へ遷都、同島へ移動する際の声明の中で、この協定は国王に無断で行われたものであると言及したが、その日のうちにドイツ軍はアテネに達した[95]。
ドイツ軍はアテナイのアクロポリスへまっすぐに進撃し、ドイツの旗を掲げた。最も有名な出来事を書いた記事によると、アクロポリスの警備を行うエヴゾネス(民族衣装を纏った衛兵)は、ドイツ軍にアクロポリスに掲げられているギリシャの旗をドイツの旗にするよう求められたが、これを拒否、ギリシャの旗を降ろすと、それを抱いてアクロポリスから飛び降りたという[96]。この話が真実か虚偽かに関係なく、多くのギリシャ人はそれを信じ、その兵士を殉教者と思ったという[90]。
イギリス連邦軍の退却
「ギリシャからはあまり知らせがないが、13,000人の兵士が金曜日の夜にクレタまで退却したとのこと。だから、それなりの確率で脱出できる希望はある。恐ろしく不安だ・・・(中略)・・・戦時内閣。チャーチルは「我々はギリシャでたった5,000人しか失わないだろう」と言う。しかし、我々は少なくとも15,000人を失うことになるだろう。チャーチルは偉大な人物だが、日に日に希望的観測に毒されていく。」 |
ロバート・メンジーズの個人的日記、1941年4月27日、28日より[97]| |
4月11日から13日にかけてのギリシャにおいて、イギリス中東派遣軍司令官アーチボルド・ウェーヴェル大将は増援はできないとウィルソンに警告し、中東派遣軍のフレディー・ディー・ガンガン(Freddie de Guingand)少将とウィルソンが信頼する将校との間で避難計画について議論することを認めた。しかし、この時点ではこの退却を主眼においた方針は採用することも言及することもできず、この方針はギリシャ政府から提案されなければならなかった。 ウェーヴェルがウィルソンにこの提案をした翌日、パパゴスは最初の行動を起こした。ウィルソンは中東派遣軍司令部に報告し、4月17日、H・T・ベイリー・グローマン海軍少将を退却に備えるためにギリシャへ派遣した。その日、ウィルソンはギリシャ王、パパゴス、ダルビアック、海軍のタール少将らを集め、アテネで会議を開いた[99]。夜、国王にそのことを伝えたコリジスは王から与えられた仕事を果たせず、また、期待を裏切ったとして自殺した[100]。4月21日、イギリス連邦軍のクレタ島、及びエジプトへの撤退が最終決定された。そして、ウェーヴェルは口頭での命令を書面にしたためてウィルソンに送った[101]。
ニュージーランド第4旅団がアテネへの隘路(後にニュージーランド軍の24時間峠と呼ばれる)を防衛するために残っている間、ニュージーランド第5旅団に所属していた約5,200名は4月24日の夜、東アッチカのポルト・ラフティ(Porto Rafti)から退避した[102]。4月25日(AnzacDay)、少数のイギリス空軍はギリシャを去り(ダルビアックはクレタ島のイラクリオンに司令部を移設した)、そして、オーストラリア軍約10,200名はナフプリオ、メガラから撤退した。しかし、輸送船アルスタープリンス(Ulster Prince)がナフプリオ付近で座礁したため、2,000名が4月27日まで待機させられた。このことから、ドイツ軍はペロポネソスの港でもイギリス連邦軍の退避が始まっていることに気づいた[103]。
我々は、ギリシャ軍最高司令官であるパパゴスの意向に逆らってギリシャに残留し、それでギリシャを荒廃にさらしてしまうわけにはいきません。ウィルソンもしくはパレイレットが、パパゴスの要請に対してギリシャ政府の承認をいただくことになるでしょう。その承認が得られ次第、撤退が開始されますが、これはギリシャ軍との協同によるテルモピュライ地区への撤退の可能性を否定するものではありません。そちらは当然、できる限りの材料を温存なさりたいでしょう。 |
1941年4月17日、ギリシャ政府の提案に対してウィンストン・チャーチル[104] |
4月25日、ドイツ軍はコリントス運河を占拠するために空挺作戦を行ったが、これはイギリス軍の退却を分断することと、ドイツ軍のコリントス地峡への進撃を確保する目的があった。イギリス軍の砲撃のあおりで橋が破壊されるまではドイツ降下猟兵の攻撃は成功していた[105]。第1SS自動車化連隊はイオアニアで再編成され、アルタからメソロンギ(Messolonghi)へピンダス山脈の西山麓沿いに進撃し、西からコリントス地峡への進撃路を確保するためにペロポネソス半島のパトラへ渡った。4月27日17時半、SS連隊はアテネに到着、苦戦していた降下兵部隊が他の部隊に救援されているとの情報を得た[93]。
コリントス運河を渡り、一時的な拠点を確保したことにより、第5装甲師団がペロポネソス半島全体でイギリス連邦軍を追撃することを可能にした。イギリス連邦軍がすでに退避を開始し始めていたため、第5装甲師団はアルゴス経由でカラマタへ進み、4月29日、南海岸へ到着、そこでピルゴス(Pyrgos)から来ていたSS部隊と合流した[93]。ペロポネソスでの戦いは船に乗り損なって孤立した少数のイギリス連邦軍部隊との間で小規模に行われた。ギリシャ中部における攻撃が数日遅れたため、イギリス連邦軍の大部分を分断することはできなかったが、オーストラリア第16、第17旅団を分断することには成功した[106]。4月30日、約50,000名の将兵の退避が終了した[注 9]。一方、4月24日から5月1日までの間で駆逐艦「ダイアモンド」、「ライネック」とイギリス貨物船4隻、オランダ船3隻、ギリシャ船23隻が失われた[111]。ドイツ軍はおよそ7〜8,000名のイギリス連邦軍将兵(2,000名のキプロス、パレスチナ将兵を含む)とユーゴスラビア将兵を捕虜にし、その一方でギリシャ軍の捕虜となっていたイタリア将兵を解放した[112]。
注釈
- ^ イタリア及びギリシャの戦力、損害の統計についてはギリシャ・イタリア戦争の戦力、損害を含んでおり、約300,000名のギリシャ将兵がアルバニアで戦っている。[3]また、ドイツ軍の犠牲者数はバルカン半島における全体での犠牲者であり、1941年5月4日の帝国議会におけるヒトラーの声明による。[4]
- ^ キプロス、パレスチナ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドそれぞれの軍の合計で将兵58,000名であった。[6]
- ^ この出来事の前に、ヒトラーはイタリアが勢力範囲とする箇所は地中海とアドリア海であることに同意していた。ユーゴスラビア、ギリシャはこれらの範囲に存在したため、ムッソリーニはこの地域をイタリアの勢力範囲にする権利があるとしていた。[16]
- ^ アメリカ陸軍の公式記録によると、イタリア軍が撃破され、即時退却したことはヒトラーの不快感を高めるだけであった。そして、最もヒトラーを怒らせたことは、バルカン諸国を平和に保つべきであるという度重なるヒトラーの声明がムッソリーニに無視されたことであった。[18]
- ^ バックリーによれば、ムッソリーニはギリシアが最終通告を受け入れずに、何らかの抵抗を行うことを望んでいた。さらにバックリーは、後に発見された書類によれば攻撃準備が詳細に準備されていたことを示しているとする。ムッソリーニはまるでナポレオンのような勝利を挙げたドイツの名声とバランスを取るために、議論する余地のないほどの大勝利を必要としていた。[19]
- ^ アメリカ陸軍の公式記録によると、ギリシャ政府はユーゴスラビア政府にこの決定を通知し、またドイツ政府にも公表した[26]。パパゴスはこのことについてこう書いている。
これはドイツ軍がイギリス軍を追い出すためにギリシャを攻撃しなければならなければならないというドイツの主張に決着をつけることになるだろう、なぜならば、ドイツ軍がブルガリアに移動しなければ、イギリス軍がギリシャに来ることはないことをドイツに知らせたからである。ドイツが小国への攻撃を正当化するためにこのような理由を挙げるのは単にドイツの事情だけであり、しかも、すでにドイツは強国との戦争に巻き込まれている。しかし、第一にドイツは1940年秋にすでに準備しているロシア侵攻計画のためにドイツの右側を確保しなければならないこと、第二に地中海東端を支配できるバルカン半島南部を確保することにより、イギリス本国と東洋との連絡路を攻撃する計画のために重要な地点であることから、バルカン諸国にイギリス軍が居ようと居まいとドイツの介入は発生しただろう[36]。
- ^ ドイツ軍がすでに侵攻準備が終了していた1941年4月6日夜間、ユーゴスラビア軍は計画を実行することをギリシャ軍に通知、4月7日の午前6時にイタリア軍を攻撃することとなった。しかし、4月7日午前3時、ギリシャ第1軍が配下の13個師団を持ってイタリア軍を攻撃、2箇所の高台を占領してイタリア将兵565名(将校15名、兵士50名)を捕らえたが、ユーゴスラビア軍は姿を見せず、結局、ギリシャ軍も8日に攻撃を中止した。[42]
- ^ ギリシャに派遣される予定であったポーランド独立カルパチアライフル旅団とオーストラリア第7師団は北アフリカ戦線のキレナイカにおいてドイツ軍が優勢となったため、ウェーベルはエジプトに配置した。[44]
- ^ イギリス連邦軍の脱出した将兵数は情報源により一致していない。イギリス政府は、50,732名が脱出できたとしている[107]。しかしG・A・ティッタートンは、これらの内、約600名が撃沈された船中にいたとしている。また、さらに500〜1,000名の落伍兵がクレタ島に脱出しており、ティッタートンはギリシャからクレタ島、もしくはエジプトに脱出できた将兵(イギリス連邦、ギリシャ両方の将兵を含む)はおよそ51,000名であったと推測している[108]。ギャビン・ロング(第二次世界大戦のオーストラリア公式記録より引用)は約46,500名の数字を挙げており、W・G・クレイトン(第二次世界大戦のニュージーランド公式記録より引用)によれば50,172名の数字を挙げている[109]。また、クレイトンは乗船が夜間であり、また大急ぎで行ったため、脱出する将兵の中にギリシャ兵や難民がいたことを考慮に入れれば、数字が違うことも納得できると指摘している[110]。
- ^ 古代ギリシャを好んでいたヨーゼフ・ゲッベルスはギリシャを初訪問したとき、青春期の夢がどのように実現したかを日記にかいている。[137]そして、メタクサスが中立を保とうとしており、[138]彼の日記にはヒトラーがギリシャとギリシャ人に対して好意的感情を持っていたとしている。しかし、拡大する枢軸国の戦略上、ギリシャへの侵攻を不可避とした。[139]
- ^ カイテルによれば、ドイツ軍がギリシャ侵攻を準備していた1940年秋、ヒトラーはこの作戦を行わなければならないことを深く残念に思っていると親しい友人たちに繰り返し言っていたという。[141]
- ^ 1940年12月5日付けのルーズベルトからゲオルギオスへの手紙より。[143]
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