4段15人抜きとその後の活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/06 00:30 UTC 版)
「平野時男」の記事における「4段15人抜きとその後の活躍」の解説
4段位として出場した1941年10月30日の講道館紅白試合(抜き試合)で相手方の4段15人を抜いて16人目で引き分け、即日5段位に昇段。この偉業は翌日の毎日新聞朝刊で「柔道日本のホープ 講道館の新記録!」として大見出しで掲載された。師の牛島の「負けは死と同義」「心臓止まりて、即ち攻撃やむ」という信念を体現し、警視庁武道館に出稽古して3時間の連続乱取りで猛者60人を手玉に取るなどの荒稽古をこなして警視庁師範を仰天させた事もある。1941年の第12回明治神宮大会に大学高専個人戦に出場すると、準々決勝で羽鳥輝久(慶大)を大外落、準決勝で斉藤雅夫(明大)を腕挫十字固、決勝では延長戦の末に松本安市(武専)を背負投で破り、優勝を果たした。猛稽古で鍛えた平野は、いつしか先輩の木村政彦と合わせて“拓殖大の双璧”と言われるまでになっていた。 連覇がかかる翌42年の明治神宮大会では、準決勝で接戦の末に大久保秀雄(武専)に優勢勝、決勝で角田良平(日大)を大外刈で破り、2連勝となった。なお、太平洋戦争の戦禍が激化したのに伴い明治神宮大会での柔道競技これが最後となり、平野自身のこの頃の大会成績も宮内省済寧館で1943年5月に開催された武道大会で5段の部優勝の記録が残っている程度である。1944年には学徒出陣の候補生として召集され、道衣に袖を通す事も難しくなっていった。 終戦に伴い1946年に復員すると、同年春に拓殖大学商学部を卒業した平野は柔道の道を再び志し、牛島の勧めにより皇宮警察の師範に着任。この頃GHQの武道禁止令により柔道大会は禁止されており、ようやく1948年11月2日に第3回国民体育大会の公開競技として復活した久しぶりの柔道大会では、決勝で羽鳥輝久(東京海上)を破り優勝を果たしている。
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