2000年代後半(流通史)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 22:36 UTC 版)
「自作パソコン」の記事における「2000年代後半(流通史)」の解説
2000年代半ばになると、自作パーツは複数のパーツ販社による類似スペック品が店頭に氾濫し差別化が難しく、粗利率も10%未満とその低収益体質が常態化していた。これも一因となり低価格パソコン市場では自作向けパーツ単体と比べればトータルの販売単価が若干低くてもまだ利益率が高く、初心者・中級者相手にも売りやすい完成品ホワイトボックスの販売にシフトする傾向が色濃くなった。一方で台湾のパーツメーカーの多くも日本法人や国内の販売代理店を通じて本格的に完成品市場に参入を始め、そちらへの比重を高めていく。同様にパソコン専門店も一般人・初心者に低価格の単体自作パーツを売るよりも、より販売単価が高いBTOへと舵を切った。秋葉原は集客が増えたので自作パーツの販売量こそ増えたが、結局は単価が下落し価格競争に巻き込まれて、新しいOSが出るなどの特殊な要因がない限り売上げの増加が期待できなくなっていた。 この様な状況に対して、一部の小売店関係者からのパーツ小売業界への不満が表面化したことに見られる様に、業界黎明期から続く各社の価格競争路線や低粗利率が恒常化した業界体質は、ここに至り自作パソコン用パーツ小売業界の数多くの企業の経営を深刻な苦境に追い込んだ。電気街でさえ2007年1月のPCサクセスの倒産、同年9月のLAOX THE COMPUTER館の閉店など、多くのショップが姿を消してゆく。その中でも2008年1月高速電脳が経営破綻したことは、秋葉原界隈の同業者にとってもショッキングな出来事であったという。 大手家電量販店では自作パーツコーナーの撤去が相次いだ。また、それらと並行して独立経営の小規模パソコンショップもOA機器販売業に近い業態のものを別とすればほとんどが姿を消し、地方の中核都市のみならず大都市圏の外郭部においても、地元から自作パーツ取扱店が消え自作パーツの店頭購入が困難になる“空白地域”が拡大していった。地方都市への積極的な展開を続けてきたPC DEPOTやパソコン工房も通信販売や直販メーカーとの価格競争の激化に晒され新規出店ペースは鈍化傾向となる。PC DEPOTは既存店舗のスクラップアンドビルドによる大型化に軸足を移し、パソコンと並行して情報機器化が進展している液晶テレビや携帯電話の取り扱いを拡大し、やがてこれをパソコン関連商品と並ぶ販売の主軸に据える店舗を増やすなど、パソコン以外にも経営安定化の方策を求めていった。パソコン工房の運営会社アロシステム(現ユニットコム)は2007年にMCJの傘下に入った。ドスパラは不採算店の整理を図りインターネット直販に注力してゆく。
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